私の好きな詩・言葉(135) 「終焉」 (杉本真維子)   


終焉


なぜ見るの、こころの突き当たりで靴をぬぐ、段差はすこし、一歩あがって、
低い水平の湖、縞模様に上方へだんだん増やしていくと、ハンガーの穴から覗く、わたし
の空がある。みなもがぱちぱち鳴る、光よりも音が先に泡だつこともある、ということを、
紙に、薬のように散らして、三角にたたんで、神経は穏やかに、終わっていく。握りしめ
て放った、草花の汁が爪を汚してうれしかった。泥をのみ、引っかかった小枝を
歯間からつまみだす、その仕草がすきだ。肩をさがして、挨拶の愛撫をする手がかたっと
地に落ちても幸せであるという根拠が、極細の光にこもり、誰も信じないすがたで、
ときどき紅を真似て、すぐに逃げていく。どこへ。なぜ見るの。
この部屋には似顔絵があって、批判的なまなざしで、手をにぎり、連れていくあなたを
初めてだきしめたいと思った。
馬の血、だれかと分け合って飲んだ
ひひん、と喉はいつも、小さく鳴っていないか
カラの声に言葉をそっと入れ
日本語に見立てたので、わたしの感情はてっていてきに一定している

突き飛ばした男の、下半身が泣いていた、
泡を凍らせ、数年後にわたしは、腹に受け取ろうとした
できません、と拒む医師の清潔な襟と深い病いをちらり見比べ、
まだ勝っているうちは治らない。
(水と食事を絶った硬くしなびた裸体にこそ、もっとも原始的な性欲は待ち望まれ、
果てた馬の波立ったウムラウトの唇のかたちで生は終わっている)


(添えられた言葉)
嘘を映さない鏡について一晩中、ある人と対話しながら考えていました。ある人というのは、とても沈んだ気持ちでいたときに、一本の赤鉛筆から突然現れた女性です(わたしは普段、絵を描かないのですが)。最近は、自分の過去の時間のなかで存在した、たしかな愛を忘れることで、いとも簡単に現在はくずれ、混乱し、見えなくなるものなのだと教えてくれました。その愛の膜の下に覆われているものが無数にあるので、忘れてそれを剥がしてしまうと、なかからうようよと別のものが出てきて、精神はひどい仕返しにあいます。何を優先したか、何が優先されたか、という事実は、どんな結果であっても、現在のわたしの紛れもない存在表明としてあることを記しておきたいです。


(現代詩手帖9月号所収)






ひと言

確かに過去にあったものが、現在という時間の中で確かでなくなることの危うさは、他人ばかりか自分の存在すら見えなくすることがある。過去にあったものは、一体何だったのか。そして、現在に立ち現れてくるものは、杉本真維子さん曰く、「なかからうようよと別のものが出てきて」ということなのだろう。どんな結果であれ、過去にあったもの、現在あるもの、それらの中にいる自分こそが、現在の自分という存在を証明する確かなものなのかもしれない。

大学で哲学を専攻された杉本真維子さんのこの思考は、私にも共鳴するものがある。しかし、私自身はこの逆も然りと思っている。いつか「うようよと別のものが出てきて」いる危うい現在の中から、確かな未来がぽとりと生まれてくるという作品を書いてみたいと思う。



杉本 真維子(すぎもと まいこ)


1973年、長野市生まれ。
2002年、現代詩手帖賞受賞。
作品: 『点火期』 (思潮社、2003年)、『詩のリレー』(共著、ふらんす堂、2006年)
『袖口の動物』 は思潮社の12人の若い詩人たちの「シリーズ新しい詩人」の中の1冊。
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by hannah5 | 2009-09-07 14:24 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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