私の好きな詩・言葉(137) 「生まれなかったあなたへ」 (中村 純)   


生まれなかったあなたへ


ジャガイモの皮を剥くとき
不意に鳩尾(みぞおち)にせりあがるニュース

 渋谷のネットカフェのトイレの便器で、臍の緒のついた男の
 嬰児の遺体が従業員に発見された。二十三歳の無職の母親逮捕。

若い女が「母親」と呼ばれたのはそれが初めてだっただろう

トマトの赤い実を刻むとき
胎児の頭は私の胞衣を破り 子宮から先の管を通る
闇を超えて産まれようとする者の あの痛み
それは私から胎児を引き剥がす痛み
胎児の痛みだったか 私の痛みだったか わからない
若い女の痛みだったか 私の痛みたったのかも 思い出せない

あなたがトイレの管から再び産まれることはない
玉葱を刻むとき
湖(うみ)の匂いのするあなたを流す推薦の音が耳を劈く

一度も肺呼吸をしないまま 永遠に泣かない赤ん坊
羊水から出たあなたを受け止めたのは
助産師たちのまだ若い手ではなく
体じゅうの水分を搾り出してしまった私の代わりに泣いた
若い女医でもなく
チカチカと点滅する蒼白い蛍光灯を反射する冷たい 便器
跳ねる魚(たいじ)の白い肉・・・・・・

 どうしたらよいのかわからなかったから、ひとりでトイレに産んだ

それはいつかの女(わたし)たちだったかもしれないね
未来なのか過去なのか もう思い出せないけれど

あなたよ ひとりさまよう身重の女の無言の口を開かせよ
ネットでつながる無名の他者にすがった女から産まれた孤児(みなしご)よ
あなたを産み 生むことができなかった女は
制服の男たちに連れられていき
あなたに吸われなかった乳房は固く凍えていったろうに

私はあなたを宿す
それは母性ではなく 孤独な私たちの彷徨
鳩尾を気にして 夕暮れのキッチンに立ち尽くす おんな

(詩と思想11月号所収)






ひと言

この詩をじっと見てしまう。この詩から目が離せない。地下のどこかからじわじわ湧いてくるものが私の心の深い所をどん、どん、と叩く。私の深い所に存在するものがおぅおぅと泣く。中村純さんの詩はいつもそうだ。


中村 純 (なかむら じゅん)

1970年 東京生まれ。慶応義塾大学文学部卒業後、編集者を経て、教員になる。
2004年 詩集 『草の家』 (土曜美術社出版販売)出版。
2005年 同詩集で横浜詩人会賞受賞。
2005年 詩と思想新人賞受賞。
日本詩人クラブ会員、横浜詩人会会員。
(詩集 『海の家族』 よりコピー抜粋)
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by hannah5 | 2009-11-04 23:18 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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