やっと出発できそうな気がする   


 さようならはいつも空気の中に貼り付いていて、新しい顔に出会うたびにさようならを言う準備をしなければならないと思っていた。いくつか安心できそうな顔を見つけて、あの顔気に入ってるんだけどなと思ってもいつのまにかさようならが滲み出してきて、いくら剥がしてもさようならは貼り付くのでさようならは永久付着なのだと思っていた。次から次へとさようならは増殖し拡張し、私の記憶にも入れられないほど肥大していった。
 ある日、ふとしたきっかけでこんにちはがやって来た。初めて来たはずなのにこんにちははいつのまにか私の中に入り込んでいて、けれど初めてのこんにちははどこか不安気で、こりこり噛んでみたり、がりがり削ってみたり、ちがうそうじゃなかった!と慌てて拾ってみたり、こんにちはは不思議で捉えどころがなく、こんにちはの前には静かなひと呼吸があり、何も起こらない無風状態が広がっていて、やがておずおずした声が聞こえてきて、その時私の中で遠い昔に知っていたような懐かしさが蘇り、じっと待っているとこんにちははふっと消え、あ、行ってしまうの?と少し寒いような気持ちになっていると、しばらく間があって、こんにちはが消えそうなくらい小さくなって来ている。私はぽっとあたたかくなる気持ちを抱えて、それでね、とこの前の話の続きを始め、うん、そうだね、と綿のような笑みが返ってきて、私はこんにちはがまた行ってしまってもたぶん大丈夫たぶん消えないでいられると思っている。
 こんにちはの後は前より呼吸が深くなっていて、脈が上下にとくとくと打ち、さようならは今でも時々貼り付くことがあるけれど、さようならの中に最近細い亀裂が走っていて、亀裂の隙間にこんにちはが平然としているのが見え隠れする。


(詩と思想8月号入選)
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by hannah5 | 2010-08-05 16:25 | 投稿・同人誌など

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