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私の好きな詩・言葉(149) 「一枚の写真」 (島田 奈都子)   


一枚の写真


別れて 暮らしはじめた部屋が
やっと落ち付き始めたとき
アルバムをなにげなく手にとると
一枚の写真が はらり と落ちる

貧しき ひかり 降る 日々
赤ちゃんの服は
町外れの小さなリサイクルショップで買い

小さな旅行と言えば
中古車に乗って
犀川の河川敷まで出かけていった
目元がどちらに似ているか議論しながら

赤ちゃんを抱きかかえ
川風に吹かれながら
わたしたちは家族という形をした
石ころのひとつだった

ぼんやりとしているうちに
外は雨が降りはじめた
あの日の 川がすぐ近くを流れていくみたいに思え
一枚の写真を飽きずに眺めている
激しく過ぎた争いの毎日
身を縮めて 耳を塞いでいる子どもの
まるまった輪郭が
しずかな部屋にいつも 影を落とした

ふっくらと太った赤ちゃん
つつましい身なりのわたしたちの笑顔に
木漏れ日が燦燦とふりそそいでいた
  何見ているの?

夫ゆずりの 細い目をした子供が
傍らで覗き込んできた
一枚の写真が
忘れかけた初夏の木洩れ陽で
夕暮れの部屋をいっぱいに照らす


(島田奈都子詩集『恥部』 より)



ひと言


笑顔をつくり、日々の雑用を片付け、時間が来れば食事の支度をし、やがて休む。その繰り返しの中で、もう当分癒えないだろうと思っていた傷は笑顔の後ろに隠し、そこに傷のあることは知っていても思い出すこともやめてしまっていた。けれど、時には傷を振り返り、傷があった時の柔らかな感触にもう一度触れることも必要かもしれない。哀しみは時間とともに薄れて小さくなっていくような気がしているけれど、本当は記憶の中で癒えずに永遠に残っているのかもしれない。

島田奈都子さんの詩集 『恥部』 を読んだ。さっさと読み急ぎそうになる言葉の前で立ち止まり、何度か読み返すうちに、日常の生活の中に埋没させていた傷みが徐々に浮かび上がってくる。あの時、どんなふうに傷の中でもがいていたか、どんなふうに息をこらして歩いていたか、どんなふうに懸命に傷みに鈍感になろうとしていたか、どんなふうに傷つけた相手のすべてを記憶から消し去ろうとしていたか。薄皮を剥ぐように、それらが私の前にゆっくりと立ち現れてくる。「一枚の写真」を読んだ時、あ、と思った。出会い、結婚、慣れない土地での生活、馴染めない土地柄、出産、健康な赤ちゃんの悦びと病んでいく心、子育て、離婚、一人で生活を支える-それらがぼんやりと浮かび上がってくる。そこから詩集の冒頭に置かれている「恥部」に戻った時、初めてこの詩集の核心に触れたと思った。「ははの恥部 を 見た とき/原生林のねっきをかんじた」で始まるこの作品は、一人の人間の生命力と、同時に太古から現在まで連綿と続いてきた生命の営みを感じさせる。母の恥部を見た時の原生林のような熱気-胎児がへその緒を通して母親と繋がっているように、現在の自分が太古の人類まで繋がっている。この詩集を読みながら、私の中で、日々の平坦な営みを押しのけ、言葉が静かに立ち上がるのを感じた。








島田 奈都子(しまだ なつこ)

1965年東京生まれ
「ユリイカ」「詩学」で新人賞に選ばれる
詩集に 『神さまからの電報』 (かまくら春秋社)(白鳥省吾賞優秀賞)
(『恥部』よりコピー抜粋)

by hannah5 | 2012-05-07 15:34 | 私の好きな詩・言葉

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