日本の詩を読む VII その3   


5月7日(月)は「日本の詩を読む」の講義の日でした。今回取り上げている詩人は萩原朔太郎と西脇順三郎で、7日は萩原朔太郎と西脇順三郎がお互いをどう見ていたか、二人のエッセイからそれを探りました。

西脇順三郎は萩原朔太郎より8歳年下で、西脇にとって朔太郎は先輩詩人に当たります。西脇は朔太郎を先生とかMaisterなどと呼んで敬意を評していたようですが(「MAISTER 萩原と僕 朔太郎からの出発」、『椎の木』(1937.2))、朔太郎は西脇の実力を認めこそすれ、かなり辛辣に西脇批判を繰り広げました(「西脇順三郎氏の詩論 純正詩論とソフィスト的詩論」、『詩人の使命』(1937.3))。朔太郎の西脇批判は辛辣といえば辛辣ですが、朔太郎ほどの人がこれだけ大真面目に批判を展開した背景には、朔太郎自身、西脇派の春山行夫からかなりの批判を受けたことがあったようです。今なら、これほど生な批判をするだろうか、仮にこういう批判をしたとして、批判された相手は果たしてどのような受け取り方をするだろうか。現代はあまりひどい批判はしなくなっているのではないかという気がします。

読んだ詩は萩原朔太郎の「荒寥地方」、西脇順三郎の「旅人」でした。



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荒寥地方

      萩原朔太郎


散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
青や赤や黄色の旗がびらびらして
むかしの出窓に鐵葉(ぶりき)の帽子が飾ってある。
どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう!
日時計の時刻はとまり
どこに買物をする店や市場もありはしない。
古い砲弾の破片(かけ)などが掘り出されて
それが要塞區域の砂の中で まっくろに錆ついてゐたではないか。
どうすれば好いのか知らない
かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを歩いてゐよう。
年をとった婦人のすがたは
家鴨(あひる)や鶏(にわとり)によく似てゐて
網膜の映るとろこに真紅(しんく)の布(きれ)がひらひらする。
なんたるかなしげな黄昏だらう!
象のやうなものが群がつてゐて
郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。
「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」





旅人

      西脇順三郎


汝カンシャクもちの旅人よ
汝の糞は流れて、ヒベルニヤの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝福せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつてゐる
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by hannah5 | 2012-05-11 14:44 | 詩のイベント | Comments(0)

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