日本の詩を読む VII その6   


6月25日(月)は「日本の詩を読む」の最終講義の日でした。今回は西脇順三郎の『失われた時』で前回の講義でカバーしなかった分、萩原朔太郎の「虚無の歌」、そして朔太郎の自作朗読のCD(「乃木坂倶楽部」「火」「沼沢地方-ULAと呼べる女に-」)を聴きました。(『よみがえる自作朗読の世界』というCDで、朔太郎の他に北原白秋や坪内逍遥、与謝野晶子、川路柳虹、斎藤茂吉などの詩人たちが自作詩を朗読・録音したものです。去年秋に催された萩原朔太郎展で購入しました。)

後年の西脇は片仮名による植物名を多用したり(西脇的宇宙の構築)、「の」を過剰に使用するなど(東洋的無、無限の連辞)、それまでの西脇の作品とは異なる作品へと変化していきました。西脇はプルースト(『失われた時を求めて』)やジェイムズ・ジョイス(『フィネガンズ・ウェイク』)に傾倒し、両者からの影響も大きかったようですが、プルーストやジョイスの作品が循環構造を持ち、最終的に最初に戻っていくのに対して、西脇の作品は「の」の氾濫により意味から非意味へと移行し、循環することなく解放していった点に特徴があります。

萩原朔太郎は1934年に詩集『氷島』、1939年に総合詩集『宿命』(散文詩)を出したのを最後に、晩年は詩を書かなくなりました。

CDの朔太郎の声は、詩から来る朔太郎の清冽なイメージに反して垢抜けない感じに聞こえました。その声の質から、恐らく晩年に録音されたものではないかと思われます。




IV(『失われた時』より)

      西脇順三郎

有と無の間を
歩いているものは何を考えているのか
金銅の裸の存在をみるためでもない
単に旅人の失われた夢の指環でもない
直線を避けるためである
四月にはシデザクラとミツバツツジが
岩の間に咲いている
盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を越えて
違った太陽系の海へ
最後のばんさんを祝福する
精霊のおとずれに
アネモネの花は開く
溺れようとする男のように
生と死のさかいをさまよう
永劫の海原にただよう
グローリアグローリア
潮の氾濫の永遠の中に
ただよう月の光りの中に
シギの鳴く音も
葦の中に吹く風も
みな自分の呼吸の音となる
はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちやくのあわびの
みそぎのひのつらゆきの水茎の
サンクタ・サンクタールムの女のたにしの
よし原の砂の千鳥の巣のすさびの
はすの葉のはずれにただよう小舟の
はてしなくさまようすみのえの
ぬれた松の実の浜栗のしたたりの
このねむりは水のつきるところまで
ただようねむりは限りなくただよう
精霊の水の眠りのオフィーリアの水苔の
砂丘のはまなでしこのはまゆうの女の
ねむりは浅瀬にさまようシバエビの
ねむりは野薔薇にふれてほほえみを
もらしまたねむりは深く沈む
いるかが鳴く
ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ

しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルへのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも・・・・・
あす あす ちやふちやふ
あす

セササランセサランセサラン

永遠はただよう





虚無の歌

      萩原朔太郎

        我れは何物をも喪失せず
        また一切を失ひ盡せり。   「氷島」

 午後の三時。廣漠とした廣間の中で、私はひとり麥
酒を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへ
もない。煖爐は明るく燃え、扉の厚い硝子を通して、
晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、
所在のない食卓、脚の細い椅子の數數。
 ヱビス橋の側に近く、此所の侘しいビヤホールに來
て、私は何を待つてるのだらう? 戀人でもなく、熱
情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつ
て年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老
いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を
探して、都會の街街を放浪して來た。そして最後に、
自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麥酒と、
雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、
私の求めたものはそれだけだつた。
 かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つ
の意志。モラルの體熱。考へる葦のをののき。無限へ
の思慕。エロスヘの切ない祈祷。そして、ああそれが
「精神」といふ名で呼ばれた、私の「失はれた追憶」だつ
た。かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細
胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體
を強ひるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲
壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲し
い物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶に
ならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無
くした。墓と、石と、蟾蜍とが、地下で私を待つてる
のだ。
 ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らば
つて居た。その板塀で圍まれた庭の彼方、倉庫の竝ぶ
空地の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙が微
かに浮び、子供の群集する遠い聲が、夢のやうに聞え
て來る。廣いがらんとした廣間の隅で、小鳥が時時囀
つて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。
コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓、脚の細
い椅子の數數。  
 ああ神よ! もう取返す術もない。私は一切を失ひ
盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。
私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」
ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に
有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。
私の空洞な最後の日に。
 今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現
に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見
ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひと
りで閑雅な麥酒を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生
よ。
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by hannah5 | 2012-06-29 16:32 | 詩のイベント | Comments(0)

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