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私の好きな詩・言葉(27) 「頑是ない歌」   

中原中也の詩には悲しく苦しい詩が多い。早熟だった中也は早くから詩作を始めた。しかし、その生活は無頼、喧騒、交遊と絶交、徒労の女との愛、反逆、幻滅、酩酊、奇妙な傲慢と卑屈といった言葉で表すことができる。孤独と哀しみが中也の詩を甘美に浮かび上がらせる。

中也の詩は長い苦しみを通貨したあと、ある時、いくばくかの安らぎを見せるようになる。「頑是ない歌」は家庭をもち、通り過ぎてきた過去を幾分自嘲的に振り返っている。人生の悲哀ーそんなところに共感した。


頑是ない歌


思へば遠くへ来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠くへ来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン(ママ)張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ


(中原中也集『在りし日の歌』より)




生ひ立ちの歌

I.

   幼年時

私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

   少年期

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

   十七-十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

   二十-二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思はれた

   二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

   二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました・・・・・

II.

私の上に降る雪は
花びらのやうに降ってきます

薪の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました


中原中也 (1907-1937)

1907(明40)   4月29日、山口県吉敷郡山口町に生まれる。

1915(大4)    1月、弟亜郎が死んで、これを悼む歌をつくった。最初の詩作となる。

1920(大9)    4月、県立山口中学に12番の成績で入学。9月頃から文学書を耽読。
            学業を怠ったため、2年進級の際は120番だった。

1923(大12)   3月、中学3学年を落第。4月、京都立命館中学に転校。高橋新吉の『ダ
            ダイスト新吉の詩』から強い影響を受ける。

1924(大13)   4月、詩人永井叔をつうじて紹介されたマキノ・プロダクションの女優長谷
            川泰子(20歳)と同棲。この頃より、多数の詩、小説を書き始める。

1925(大14)   東大仏文科在学中の小林秀雄を知る。11月、泰子が小林秀雄のもとへ
            去る。

1931(昭6)    4月、東京外語専修科仏語科に入学。

1933(昭8)    12月、遠縁にあたる上野孝子と結婚。

1934(昭9)    10月、長男文也誕生。

1936(昭11)   11月、文也急死。12月、次男愛雅誕生。神経衰弱が昂じ、脅迫観念に襲
            われて苦しんだ。

1937(昭12)   1月、神経衰弱のため千葉寺療養所に入院。2月、退院。10月22日、
            結核性脳膜炎をおこして死去。享年30歳。

by hannah5 | 2005-02-06 20:38 | 私の好きな詩・言葉

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