日本の詩を読む VIII その4   


12月10日(月)は「日本の詩を読む」VIIIの4回目の講義でした。今回は中原中也の詩論「名辞以前」についての講義でした。名辞とは言葉のこと、すなわち言葉を覚える以前のことで、幼児期をさします。中也は言葉にならないものについても言語化することに腐心した人でした。この背景にあったのは哲学者ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』)の考え方で、中也はこれに果敢に挑戦しました。読んだ作品は『山羊の歌』から「いのちの声」、『在りし日の歌』から「言葉なき歌」と「曇天」でした。(次回の講義は宮沢賢治です。)



いのちの声

      もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                                   ――ソロモン



僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鐵橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆(すっかり)分つたためしはない。

時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

   Ⅱ

否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短に、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

人は皆、知ると知らぬとに拘(かかは)らず、そのことを希望してをり、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併し幸福といふものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧(けい)敏(びん)なる商人の、称して阿呆(あはう)といふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。

だが、それが此の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、

汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
[PR]

by hannah5 | 2012-12-11 15:56 | 詩のイベント | Comments(0)

<< 「詩とアートが出逢うとき」 日本の詩を読む VIII その3 >>