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私の好きな詩・言葉(153)「春雷」(中村 梨々)   


春雷


目を開けるとまっしろな世界で、それはまぶしさに失ったとき。水のような手でやわ
らかく。抱かれた。セリバオウレンの茎根に沿って、はじめて息を呑む。晴れだった。
のたうちまわるよな雨がわたしを付け足して。きのう、生身に近い。順序はまだ濡れ
ていたり手足のまどろみ。ふくらむ菜園に芽を摘むコウノトリ。豪雨の跡がくっきり
とまぶたを腫らすと落日。滑り込むうろこ。瞼の裏にひらめく海の藍や枯れた緑や。
固く閉ざされた貝殻の模様をわたしは見ていた。湿地になって。


幾重にもひらいた夜の記述、すくった朝の舌のつめたさ。


やさしく途切れるように血液はめぐり、瑞々しさに朽ちてゆく。耳の奥で町はなんど
もよろめいて影を放した。ひそかな逃亡の隣で、ほほえんで、

暗く伸びやかな喉は背びれに息を吹く。かすかな振動にふさがる水面。ゆれながら引
き、引き返すくちびる、くちびるのなかに町の明かりが遠ざかる。送電線ぜんぶ引き
ちぎる、乾いていくのだから

皮膚からガラスの焦げた匂いがする。姿をかえて異国。白い砂をすくって音は静か。
真後ろの水際を呼ぶ、おいで。手のように握って頬のようにつねって陸にあがれば、
断たれた水路。風速にしかばねが切れていく。ばららあばラ骨、戯れる。(わたしは
いちどこわれたかたち。(はじめて会ったものにこわされてゆくの))。

なめらかな身体にして。鼓膜に消えて。何も持っていなかったことを誇りに思うよ、
忘れたことに斜めの線を引いて、木琴を叩く。

走り去っていくことは、ことば、焦げた匂い、水の尾根。雨が降るとわしづかみにし
た尾、海図に合わせて、荒れ。ぬめりで踏みしめゆく町。町のなかの片鱗。片鱗のな
か、衰退。空き箱、路線。見渡すかぎりの整列。誤謬。睡蓮にくるまる蓮々と。とど
ろく雲の。

まもなく、嵐になる首筋。

(中村梨々詩集『たくさんの窓から手を振る』より)







ひと言

東京の神保町に岩波ホールというのがある。商業ベースになりにくいと考えられる外国の映画を上映する映画館で、アジア、アフリカ、中南米など欧米以外の国々の作品や女性監督の作品を上映する。アカデミー賞やオスカー賞を受賞した欧米の華やかな映画作品とは趣を異にしているが、岩波ホールで上映される映画はどれも丁寧に作られた名作ばかりである。比喩が飛躍して申し訳ないが、中村梨々さんの作品を読んでいると岩波ホールの映画を思い出すのだ。目覚しい活躍をする現代詩の詩人たちの輪の中に入れないと言って、いつだったか悩んでいらしたことがあったが、梨々さんにはけばけばしさや派手さとは無縁であっても、ごく上質な作品を丁寧に書いていってほしいと思う。信念をもって書き続けていれば、評価は自ずとついてくる。

詩集『たくさんの窓から手を振る』はページを繰るごとに幾重にも重なった美しい花びらが1枚ずつ剥がれ、梨々さんワールドが開花した詩集である。その中でおや、と思って惹かれた作品がある。「春雷」と、恐らくあとがきとして書かれたものであろう「二〇一一 秋から」である。「二〇一一 秋から」は2011年秋から徐々に過去へと遡り、2010年春に砕け散るようなクライマックスがあり、そこから一気に現在の2012年春にカメラのズームを戻すという、まるで映画のシーンのような構成で書かれている。そのクライマックスとは父親の死である。庭の草木や夫婦の静かなやり取りなど、それらの一つ一つは父親の死を示唆していると思わせるものがある。

「春雷」は私の記憶が正しければ現代詩手帖の投稿欄で高評価を得た作品で、「これまでの作品とは異なる」という評を得たと思う(野村喜和夫選)。「春雷」には総毛立つような清々しさがある。今まで存在していたものが終焉を迎え、存在にまつわる記憶や思い出が瞼の裏に走馬灯のように現れては走り去るイメージがある。その終焉は作者の内面を激しく引き裂き、言葉が失われ、空を真っ二つに裂いて落ちる雷、降り止まぬ雨、怒涛の嵐に呑み込まれる。存在そのものへの憧憬、感謝、情愛、そして惜別へと向かう。

詩集の装丁は梨々さんらしい素敵な出来栄えである。

中村梨々(なかむら りり)さんのブログ: nasi-no-hibi

by hannah5 | 2013-03-01 23:01 | 私の好きな詩・言葉

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