日本の詩を読む IX その2   


6月3日(月)は「日本の詩を読む-女性詩人」の2回目の講義でした。新川和江さんの作品を読みました。

不思議で大らかな作風、所謂大地的な女性性。遠くの深い所を見ているような感じ。もしかしたら、たぶん、新川さんのような作品は現代の若手の詩人たちの作品には見られないものかもしれません。読んだのは「ミンダの店」、「見知らぬ男のうしろ姿」でした。(引用した「ミンダの店」には新川さんが書かれた詩の説明がついていて、なかなか面白いのでそちらも引用させていただきました。)

それにしても、こういう作品を読むと、詩を書くときは深呼吸をして、遠くに目をやって、目先の細かい技巧的なことはちょっと置いておいて・・・と、反省させられます。



ミンダの店

         ――その馬はうしろをふりむいて
           誰もまだ見たことのないものを見た
                      J.シュペルヴィエル

いろいろ果実はならべたが
店いっぱいにならべたが
ミンダはふっと思ってしまう
〈なにかが足りない〉

そうだ たしかになにかが足りない

たちどころに
レモンが腐る パイナップルが腐る バナナが腐る
金銭登録機(レジ)が腐る 風が腐る 広場の大時計が腐る

来るだろうか
仕入れ口に立って
ミンダは道のほうを見る
来るだろうか それを載せた配達車は?

西洋の貴婦人たちも 東洋の王も
たえて久しく味わったことのない珍菓
いやいや そういうものではないな
橋の下の乞食のこどもが
汚れた指で
ある日むいたちっぽけな蜜柑
いやいや そういうものでもないな
言葉にすると嘘ばかりがふくらんで
奇妙な果実のお化けになる

ともあれミンダは
ふっと思ってしまったのだ

それ以来
片身をそがれた魚のように
はんしん骨をさらした姿勢で
ミンダは道のほうばかり見ている
それが来なければ
りんごも いちじくも 死んだまま
歴史も 絵はがきも
水道の蛇口も 死んだまま


最近、スィーティという名の、皮が濃い緑色をした大きな蜜柑をいただいた。イスラエル産で、十年ほど前から輸入されているとの由。季節ごとに各地から届くくだもので充足していて、果実店をのぞくことはめったに無かったから、高知産の文旦に似た上品な甘さを持つこのスィーティと私とは、はじめての出会いなのであった。ミンダが待っていたのは、このような果実だったのではないかと、昔書いたこの詩を思い出した。
 しかし手にしてみれば、そうして味わってみれば、その瞬間から既知の果実になるわけで、次の日から又ミンダは仕入れ口に立ち、まだ見たことも無い果実を積んだ車が入ってくるのを、待つのだろう。
 希望というのではない、ましてや欲望というなまなましいものでもない、心が抱えた漠とした欠除。それを埋めてくれる何ものかの到来を、待ちつづけているところが人にはありはしないだろうか。尻っぽを斬り落とした尾骶骨のあたりからか、胸の奥のランゲルハンス島あたりからか、靄のように湧き出す、きわめて厄介でかつ贅沢なエモーション。
 私はこのミンダを、痩身で手脚がやや人よりも長い感じの青年俳優アンソニー・パーキンスに托して、前掛など締めて貰い、果実店の仕入れ口に立って貰ったつもりなのだが、当時、作家の加藤幸子さんが書いてくださった評言の中に、つぎのようなくだりがあった。
《……売子嬢のミンダが〈来なければ不足なのだが正体不明の何か〉を永久に待ちつづけている。シャガールの夢から抜けでたような光景には一種の郷愁も漂うのだが、黙読をくり返すうちに私は愕然とした。もしかしたら、ミンダはかわいい娘というのは錯覚で、すでに百歳を越えた老婆であるのかもしれない。彼女がふり返って素顔を私に見せないうちに、退散するほうが……》。
 百歳にはまだ間があるが私ももはや〈老婆〉である。先日TVの映画でゆくりなくも観たパーキンスが、まぎれもなく〈老人〉になっていて、これには愕然とした。
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by hannah5 | 2013-06-07 23:11 | 詩のイベント | Comments(0)

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