日本の詩を読む IX その5   


7月29日(月)は「日本の詩を読むIX」の5回目の講義でした。女性詩人は前回で終わり、今回から「現代詩の最前線」をテーマに、詩作の現場に迫ります。その1回目は野村喜和夫さんの詩「デジャヴュ街道」を基に講義がなされました。

「デジャヴュ街道」は1980年代に散文で第1稿を書き、そのままどこへも発表せずに寝かせておきましたが、30年後に行分け詩として発表されました(第2稿)。講義の詳細は書きませんが、かなり興味ある内容の講義でした。興味がそそられた言葉だけをここに列記しておきます。時間錯誤(アナクロニズム)、既視感、フェルナンド・ペソア著『不隠の書』、écriture automatique、レミニセンス(想起)、引用、パロデイ、書き換え、パスティシュ(模作)、ローマン・ヤコブソン(言語学者)、シュールレアリズム的遊戯<優雅な死体>、隠喩の時代、小説の時代、直喩、換喩。



デジャヴュ街道


デジャヴュ、
さながらてのひらのうえを走るように、
紙葉一枚ほどのくすんだ空の奥の、その右上あたりから、
道がひとすじ、濃くうすくあらわれ、
ちらめく蛇体のようにうねりながら、
私たちの眼のはるか下へ、たとえば立ったまま眠る
祖の腰のあたりへと伸びて――

オルガスムス屋が行く、
神経の蟻が行く、

と、その道をよぎるべつの道たちが、
デジャヴュ、
長短さまざまにちぎれた糸屑のさまをなして浮かび上がり、
まれには、少女の脛のうえの
かすれた傷痕のような風情をみせながら、
どれも一様に陽に照らされて、
右へ左へと揺れひかるので――

神経の蟻が行く、
錆と苔が行く、

こうして全体が、
まるで地のおもてのどこかしらの、
デジャヴュ、
数知れぬ交叉路を身にまとった街道そのままに、
空のおもての鏡にでも映し出された、というように――

錆と苔が行く、
またオルガスムス屋が行く、

そうなのだ、
さらにつぶさに眺めると、
街道のところどころがわずかに捩じれていて、だからその、
いわば脇腹や背の部分までもがいっときあらわにされ、
デジャヴュ、
ためになお一層、いのちとしての街道の
息づき脈うっているのが際立たせられ――

オルガスムス屋が行く、
霊の抜けがけが行く、

かたわらには、
とりわけ脇道との付け根あたりには、
水滴のようにこびりついた廃屋の数かぎりなく、
あるいは伸び放題の潅木の茂み、
干からびた犬の死骸らしきものも散見されて、
してみれば棄村の形跡はあきらかなのに、なぜ、なぜ
道だけが無疵のまま生々しく、
デジャヴュ、
空のおもてを縫ってなおもうねってゆくのか、
謎めいてゆくのか――

霊の抜けがけが行く、
また神経の蟻が行く、

おお、いったい何のための、
誰のための、これは通い路、
と問いかけたそのときだった、まさにそのとき、
空の奥のその街道のうえを、
ひとの痕跡を運び、
また食らう微細な生き物の列らしき影が、
さながらひとの染色体のように
ひとしきり激しく昇り降りするのを、
なすすべもなく私たちは眼に、
デジャヴュ、
したのだった――

神経の蟻が行く、
また錆と苔が行く、

その昇降管のなかを、その昇降管のなかを――
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by hannah5 | 2013-07-31 18:02 | 詩のイベント | Comments(0)

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