日本の詩を読む XI 「金子光晴の詩の世界 その2」   


金子光晴の詩の世界の2回目の講義が6月2日に行われ、森三千代との出会い、世界放浪、戦争の足音などを中心に講義が進められました。

忙しい合間を縫って少しずつ垣間見ている金子光晴の世界に対して、まだ感想らしいものはありませんが、金子光晴の生きていた時代の時間の流れ方が今とだいぶ違っているように思います。今はともかくすべてが早く早くという感じですが、では早くした後で何が残るかと言えば、何となく徒労感と虚無感が底の方を徘徊しているような気がします。金子光晴の生きていた時代は一寸一秒も惜しんで生産性を上げることはなかったにしても、だから一般的には今ほど物質的に豊かな暮らしはなかったはずですが、何かもっと大事なものを得ていたような気がしてなりません。生きることも文学をすることも時間的な間隔が大きかったにもかかわらず、本質的なものを得ていたと思います。

今回読んだのは「洗面器」という作品1篇だけでした。野村喜和夫さんはこの詩をすごいすごいとおっしゃっていたのですが、私はどうもこういうみじめったらしい詩に拒絶感を覚えてしまいます。さびしいと感じるのは金子光晴の日本人的感覚で、実際の現地の客を待っているこの女たちは、もっとたくましくざわざわと生きていたはずです。私にはそういう女たちの方に魅力を感じました。



洗面器


(僕は長年のあいだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅人たちはそれに羊(カンピン)や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音をたてて尿をする。)

 洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり。
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。
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by hannah5 | 2014-06-08 23:29 | 詩のイベント | Comments(0)

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