日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第4回)   


「石原吉郎を読む」の4回目の講義が6月15日に行われました。今回は石原吉郎にとっての言語を中心に講義が進められました。

石原吉郎は強制収容所にいる間に一時失語症に陥り、後にそのことを『日常への強制』の中で「失語と沈黙」題して書いています。石原吉郎にとっての失語とは何か、沈黙とはどういうものか、少し引用してみます。

「強制収容所のこのような日常のなかで、いわば、<平均化>ともいうべき過程が、一種の法則性をもって容赦なく進行する。私たちはほとんどおなじかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動しはじめる。こうして私たちが、いまや単独な存在であることを否応なしに断念させられ、およそプライバシーというべきものが、私たちのあいだから完全に姿を消す瞬間から、私たちにとってコミュニケーションはその意味をうしなう。
 はり渡した板にまるい穴を穿っただけの、定員三十名ほどにもおよぶ収容所の便所は、毎日一定の時刻に、しゃがんだ一人一人の前に長い行列ができる。便所でさえも完全に公開された場所である運命をのがれえない環境では、もはやプライバシーなぞ存在する余地はない。私たちはおたがいにとって、要するに「わかり切った」存在であり、いつその位置をとりかえても、混乱なぞ起りようもなかったのである。私たちの収容所では囚人番号は使用していなかったが、しかし徐々に風化されつつあった私たちの姓名は、いつでも番号に置きかえうる状態にあった。・・・(中略)
 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。・・・(中略)
 失語とは、いわば仮死である。それはその状態なりに、自然であるともいえる。そして、それが自然であるところに、仮死のほんとうのおそろしさがある。禿鷹も、禿鷹についばまれる死体も、そのかぎりでは自然なのだ。」

 「しかし囚人は、本能的に未知な環境を恐れる。既知の悲惨は、それが既知であるというだけで、どのような未知の悲惨よりも、まだしも耐えやすく思われるのである。私自身、環境をかわるごとに、状況は確実に悪化した。こんどかわれば、さらに悪くなるという先入主のようなものが、かたく私たちのあいだに根をおろしていた。おそらくそうした不安がこの若いロシヤ人を、発作的に警戒区域外へ駆り立てたのであろう。
 彼は不幸にして、監視兵の視野を横断する方向をとらず、一直線に遠ざかる方向をとったため、おちついて照準をあわせた監視兵によって一発で射殺された。世界が動顚するような一瞬ののちの、すでに死体となって彼は投げ出されていた。かけ寄った監視兵が、なれた動作で、爪さきで死体を仰向けにした。・・・(中略)
 うずくまった私のなかで、あるはげしいものが一挙に棒立ちになった。そのときの私の脳裡に灼きついたのは、そのときにかぎり死体ではなかった。そのとき私を動顚させたのは、監視兵がしっかりと狙って射ったただ一発の銃声である。銃声が恐怖となるのは、ただ一発にかぎられる。とっさのまに監視兵をとらえた殺意は、過不足なくその一発にこめられていた。一定の制限のもとに殺戮をゆるされたものの圧しころした意志が、その一発に集中していた。監視兵のこの殺意は、あきらかに私の内部に反応をひきおこした。私は私の内部で、出口を求めていっせいにせめぎあう、言葉にならない言葉に不意につきとばされた。それはあきらかに言葉であった。言葉は復活するやいなや、厚い手のひらで出口をふさがれた。一切の言葉を封じられたままで、私は私のなかのなにかを、おのれの意思で担いなおした。一瞬の沈黙のなかで、なにかが圧しころされ、なにかが掘りおこされた。私にとってそれは、まったく予期しなかったことであった。
 この瞬間の衝撃は、帰国後もしばしば私をおびやかした。言葉をとりもどすということは、主体にその用意がないばあい、主体そのものの均衡を根底からゆりうごかす。そしてこの均衡こそは、囚人が失語を代償として、かろうじて獲得したものである。言葉は、言葉につらなる一切の眷族をひきつれて、もっとも望ましくないときに、不意をついて訪れる暴君である。」

そして、石原は「詩の定義」と題した短いエッセイの中で次のように述べている。
 「ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。」

石原吉郎の詩は逆説を用いたものが多いが、これらの文章を読んだ時、私は初めてその背景にあるものが何なのかを理解した。石原の詩の活動のすべてはこの逆説から始まったと言って過言ではないと思う。

今回読んだ作品は「酒がのみたい夜」と「自転車に乗るクラリモンド」でした。


酒がのみたい夜


酒がのみたい夜は
酒だけでない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕ぐれとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒がのみたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を掘りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ

(石原吉郎詩集 『サンチョ・パンサの帰郷』 より)
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by hannah5 | 2015-06-20 23:05 | 詩のイベント | Comments(0)

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