日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第5回)   


6月22日(月)、「石原吉郎を読む」の5回目の講義がありました。今回のテーマは「石原吉郎とパウル・ツェラン」で、富岡悦子さんの 『パウル・ツェランと石原吉郎』 (みすず書房)における石原吉郎とパウル・ツェランの比較を参考にしながら講義が進められました。両者の類似点と相違点との比較はなかなか面白かったですが、ユダヤ人という民族全体の抹殺(ツェラン)と一個人のシベリヤ抑留による強制労働(石原)との比較は果たして同一線上で行えるものなのか、はなはだ疑問であると思いました。

読んだ作品はパウル・ツェランの「頌歌」と「あらかじめはたらきかけることをやめよ」、石原吉郎の「花であること」と「死」、斉藤環の散文「パウル・ツェラン 『パウル・ツェラン詩集』 」(一部)でした。




頌歌

  パウル・ツェラン


誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
誰でもないものがぼくらの塵にまじないをかける。
誰でもないものが。

たたえられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために
ぼくらは花咲こうとおもう。
あなたに
むけて。

ひとつの無で
ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
ありつづけるだろう、花咲きながら――
無の、誰でもないものの
薔薇。

魂のあかるみを帯びた
花柱、
天の荒漠を帯びた花粉、
棘のうえで、
おおそのうえでぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
花冠。





花であること

  石原吉郎


花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
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by hannah5 | 2015-06-26 00:47 | 詩のイベント | Comments(0)

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