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日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第8回)   


8回目の「詩的アヴァンギャルドの100年」は谷川俊太郎を中心に講義が行われました(3/7)。タイトルは「谷川俊太郎あるいは日本語のレッスン」。詩的アヴァンギャルドの詩人の中に谷川俊太郎が入っていたので、平易な日本語で書かれた谷川俊太郎の詩のどこがアヴァンギャルドなのかと思っていたのですが、講義で取り上げられた詩を見ると、確かに他のアヴァンギャルドの詩人たちに負けずとも劣らずかなりアヴァンギャルドです。私自身谷川俊太郎が好きで、毎日のように俊太郎の詩を読んでいた時期がありますが、実験的な詩があることには気がつきませんでした。もしかすると今まで取り上げられた詩人たちの中で、谷川俊太郎はもっともアヴァンギャルドな詩人かもしれません。それにしても、平易な言葉から実験的な言葉までその語彙はかなり豊富で、しかもいまだに創作意欲は衰えることなく書き続けているのですから、谷川俊太郎という人は驚異的な才能をもった詩人です。教室で読んだ詩は「壹部限定版詩集〈世界ノ雛形〉目録」(一部)、「日本語のカタログ」(一部)、「コップへの不可能な接近」、野村喜和夫さんの「斧の平和」、生徒の希望により岩成達也の「鳥の骨組みに関する覚書・同補足」(一部)でした。



コップへの不可能な接近

       谷川俊太郎


それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位としても用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられているけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)製作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由ではないにちがいない。
それほ主として渇きをいやすために使用される一個の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされくぼめられたふたつの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの美として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれをこの地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当は何なのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。



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by hannah5 | 2016-03-09 21:10 | 詩のイベント

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