日本の詩を読むXI ~ 緊急的戦後詩再読提言(第4回)   


「戦後詩を読む」の第4回目は、前回時間が足りなくて触れなかった部分の田村隆一について少しと、北村太郎についての講義でした(12/19)。

不思議なというか偶然というか、教室の参加者の中に北村太郎を読んだことのある人は私も含めてほとんどいず、資料として配布された作品が北村太郎に触れた初めてだった人ばかりでした。北村太郎は荒地の中心的存在であったにもかかわらず、実際に詩集を刊行したのは44歳になってからで、荒地の詩人たちとは逆に、後年になってから爆発的に詩を書くようになりました。

資料で配布された作品は初めて読む作品でしたが、その繊細な響きは恐らく鮎川信夫や田村隆一よりずっと心に響くものがあって、北村太郎を読んでこなかったことが少なからず悔やまれました。



朝の鏡


  北村太郎


朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる――それが
一生というものか。不思議だ。
なぜ、ぼくは生きていられるのか。曇り日の
海を一日中、見つめているような
眼をして、人生の半ばを過ぎた。

「一個の死体となること、それは
常に生けるイマージュであるべきだ。
ひどい死にざまを勘定に入れて、
迫りくる時を待ちかまえていること」
かつて、それがぼくの慰めであった。
おお、なんとウェファースを噛むような

考え! おごりと空しさ! ぼくの
小帝国はほろびた。だが、だれも
ぼくを罰しはしなかった。まったくぼくが
まちがっていたのに。アフリカの
すさまじい景色が、強い光りのなかに
白々と、ひろがっていた。そして

まだ、同じながめを窓に見る。(おはよう
女よ、くちなしの匂いよ)積極的な人生観も
シガーの灰のように無力だ。おはよう
臨終の悪臭よ、よく働く陽気な男たちよ。
ぼくは歯をみがき、ていねいに石鹸で
手を洗い、鏡をのぞきこむ。

朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる――それが
一生というものか。残酷だ。
なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
海を一日中、見つめているような
眼をして、人生の半ばを過ぎた。




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by hannah5 | 2016-12-28 13:20 | 詩のイベント | Comments(0)

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