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私の好きな詩・言葉(40) 「春と修羅 序」   

大正時代の岩手に生きた農芸化学者の詩が、21世紀の都会の真中で生きる私の目の前で宇宙のような不思議な広がりを見せてくれた。宮澤賢治の詩には科学用語を使い気取って書かれた言葉はひとつもない。詩人の佐藤惣之助は『春と修羅』が刊行された時、「この詩集はいちばん僕を驚かした。何故なら彼は詩壇に流布されている一個の語葉も所有していない。否、かつて文学書に現れた一聯の語藻をも持ってはいない。彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」と書いている。(「日本詩人」第4巻第12号所収、「十三年度の詩集」)

宮澤賢治は農芸化学者であり、肥料設計者であり、石灰工場の技師であった。『春と修羅』の序に書かれた賢治の「わたくしといふ現象」はひとつの時代を生き、変化し、無数の人間たちと感覚や生命力を共有しながら、賢治が亡くなった後も宮澤賢治という一個の人間が時代を超えてなお生き続けていることを語っている。


春と修羅 序


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮は本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立てや質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるひは白亜紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四時延長のなかで主張されます


(角川書店『昭和文学全集第14巻・宮澤賢治集』、集英社『日本の詩・宮澤賢治集』より)



賢治の文学の背景を理解するのに重要なのが東北の長い冬である。長く陰鬱な冬の下で、人々は春をひたすら待つ。しかし、せっかくやってきた春も、そのすぐあとに冷夏、旱魃におそわれることが多かった。


くらかけ山の雪


たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぼしやぼしやしたり黝(くす)んだりして
すこしもあてにならないので
まことにあんな酵母ふうの
朧ろなふぶきではありますが
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです



宮澤賢治 (1896-1933)

1896(明29)  8月27日、岩手県稗貫郡花巻町に生まれる。

1911(明44)  5月、中学の遠足で小岩井農場へ行った。前年刊行の石川啄木の『一握りの砂』の影響から
           短歌を作り始めた。

1915(大4)   4月、盛岡高等農林学校農学科第二部に主席で入学。

1916(大5)   5月、最初の短編「家長制度」を書いた。11月、短歌「灰色の岩」29首を『校友会会報』
           32号に発表。

1917(大6)   7月、級友らと同人雑誌『アザリア』を刊行、短編「『旅人のはなし』から」と短歌「みふゆの
           ひのき」など十首を発表。

1921(大10)  短編「電車」「床屋」「竜と詩人」を書く。また、「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」
           「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」「冬のスケッチ」「狼森と笊森、盗森」「注文の多い料理
           店」「烏の北斗七世」を執筆。12月、稗貫郡立稗貫農学校(のちの岩手県立花巻農学校)の  
           教諭となる。

1922(大11)  『春と修羅』執筆。11月、妹トシが25歳で死亡。臨終詩篇「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」
           を書いた。以後、精力的に詩作を続けた。

1928(昭3)   6月、肋膜炎にかかり病臥。

1931(昭6)   9月、再び発熱、病床につく。
           
1933(昭8)   9月、永眠。享年37歳。

by hannah5 | 2005-05-08 23:22 | 私の好きな詩・言葉

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