私の好きな詩・言葉(65) 「裸形(らぎょう)」(高村 光太郎)   


智恵子の裸形をわたくしは恋ふ
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造形の瑪瑙質(めなうしつ)に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう。


(高村光太郎 『智恵子抄』 より)
(昭和24年(1949)、10.30)




解説

以前にも高村光太郎の詩を紹介したことがあるが、今回の詩「裸形」は光太郎と智恵子を思う時に幾度となく思い出す詩である。「裸形」は智恵子が亡くなってから11年後に書かれた。光太郎が十和田湖畔に建てた「裸婦像」は智恵子だと言われている。

彫刻家高村光雲の長男として生まれた光太郎は、父の業を継ぐべく、15歳で東京美術学校に入学し、木彫科に学んだ。さらに彫刻研究科と洋画科にも学んだ。卒業後、父や周囲のすすめによってアメリカとフランスに留学した。留学費用は充分でなく、アメリカでは彫刻家の助手のような仕事をしたり、フランスでは高価な本を買ったために食事代に困ったりした。しかし、欧米での留学生活は光太郎を旧江戸時代の封建的倫理観から解放し、自我の目覚めと精神の自由を穫得させた。

しかし、帰国後、光太郎は封建的な日本の社会に葛藤する。家や仕事の面で父光雲の意向に背き、長男であるにもかからわず家督を弟に譲り、自分は別にアトリエを建ててもらって別居した。また、木下杢太郎、北原白秋、長田秀雄を中心にして結成された「パンの会」に参加、放埓、耽美、焦燥、芸術的自由の世界に身を投じた。その最中に出会ったのが長沼智恵子である。

智恵子との出会いは光太郎の生活を一転させた。光太郎は智恵子との出会いを「美に生きる」で次のように書いている。

    美に生きる

    一人の女性の愛に清められて
    私はやっと自己を得た。
    言はやうなき窮乏をつづけながら
    私はもう一度美の世界にとびこんだ。
    生来の離郡性は
    私を個の鍛冶に専念せしめて、
    世上の葛藤にうとからしめた。
    政治も経済も社会運動そのものさへも、
    影のやうにしか見えなかつた。
    智恵子と私とただ二人だけで
    人に知られぬ生活を戦ひつつ
    都会のまんなかに蟄居した。
    二人で築いた夢のかずかずは
    みんな内の世界のものばかり。
    検討するのも内部財産。
    私は美の強い腕に誘導せられて
    ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。

男女の自由な愛を否定する封建的社会の中で、光太郎は愛の自由を貫き、同時に近代的人間としての生き方を確立していった。

(集英社 『高村光太郎集』 あとがき、伊藤新吉「高村光太郎・生命感の詩人」より要約抜粋)

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十和田湖畔に立つ「裸婦像」

年譜

1883(明16)   東京市下谷区西街三番町に生まれる。父は木彫家高村光雲。

1896(明29)   美術学校の予備校共立美術学館に入学。中学の課程を学ぶ。

1897(明30)   東京美術学校予科に入学。9月、本科1年彫刻科に進む。

1902(明35)   東京美術学校彫刻科(木彫)を卒業。研究科に入る。

1904(明37)   2月、日露開戦。早くからロダンにひかれていたが、2月号の 『スチュディオ』 で「考える人」の写真を見、強い感銘を受ける。

1905(明38)   モクレエルの 『オオギュスト ロダン』 を読み、これこそ自分の道だと感じる。9月、日露講和。洋画科に再入学。

1906(明39)   渡米。ニューヨーク五番街の下宿からアカデミー・オブ・デザインの美術学校に通う。のち、アート・スチューデント・リーグの夜学生となる。

1908(明41)   パリに移り、カンパーニュ・プルミエル街17番地の地階アトリエに住む。フランスの詩を読み始める。

1909(明42)   帰国。

1911(明44)   1月、『スバル』 に「失はれたるモナ・リザ」「根付の国」などを含む詩5篇を発表。堰を切ったように詩を書き始める。12月、柳八重の紹介で長沼智恵子を知る。智恵子は福島県安達郡油井村の酒造業長沼今朝吉の長女。日本女子大学校家政学科を卒業した後も東京に残り、洋画家としての道を踏み出していた。

1912(明45・大元) 駒込林町25番地にアトリエ完成。夏、犬吠埼に旅行し、偶然智恵子に逢う。

1913(大2)   上高地に滞在。9月には智恵子も来る。婚約。

1914(大3)   最初の詩集 『道程』 を抒情詩社より自費刊行。12月、アトリエで智恵子との生活を始める。

1916(大5)   訳篇 『ロダンの言葉』 を阿蘭陀書房より刊行。

1929(昭4)   長沼家が破産。一家は離散し、智恵子の健康も傾く。

1931(昭6)   8月、三陸旅行。その留守の頃から、智恵子に精神分裂の兆候があらわれる。

1932(昭7)   7月、智恵子が自宅画室でアダリン自殺未遂。

1933(昭8)   8月、墓参を兼ねて、智恵子と東北の温泉めぐりをしたが、病状は悪化をたどる。病める智恵子の入籍を果たす。

1934(昭9)   智恵子の病状は一進一退。10月、父光雲が没する。

1936(昭11)  前年2月、南品川ゼームス坂病院に入院した智恵子は、この頃から紙絵を切り始める。12月、喀血横臥。

1938(昭13)  10月5日、智恵子が粟粒性肺結核で没する。52歳。

1941(昭16)  詩集 『智恵子抄』 を龍星閣より刊行。12月、太平洋戦争開戦。

1942(昭17)   『道程』 により第一回芸術院賞を受ける。

1945(昭20)   4月13日、空襲によりアトリエ全焼。多くの製作、草稿等を失う。5月、岩手県花巻の宮沢清六方に疎開。8月、宮沢家戦災。10月、稗貫郡太田村山口に鉱山小屋を移築し、農耕自炊の生活に入る。

1951(昭26)   中央公論社より 『高村光太郎全集』 全六巻の刊行が始まる。

1952(昭27)   10月、十和田湖畔に建つ裸婦像制作のため上京。中野区桃園町48番地の故中西利雄アトリエに入る。

1953(昭28)   10月、裸婦像が十和田湖畔休屋に除幕される。12月、日本芸術院会員に選ばれたが辞退する。

1955(昭30)   裸婦像完成後、健康を著しく害し、療養に専念する。

1956(昭31)   3月からしばしば喀血を繰り返したが、4月2日早晩、アトリエで没する。73歳。5月、智恵子の眠る駒込染井の高村家墓地に埋葬。

(北川太一編)
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by hannah5 | 2006-02-05 23:49 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(6)

Commented by turezure_asagi at 2006-02-06 17:27
hannaさんこんにちは。
じっくりと読ませていただきました。

十和田湖の裸婦は私も見ております。
少しも知らずに見ておりました。
ここで 知ることができて 良かったです。

芸術家の影には必ず愛する女性がいるもの。
そして その愛の力が 作品を生み出す情熱となるのでしょうか。
というより、作品を生み出す力は愛なのかな・・・

美に対しての意識が強い人は感性も鋭く、そして繊細すぎて、身体を痛めてしまうのですね。智恵子もそのひとり・・

深い愛を感じました。
Commented by nefeltahli at 2006-02-06 19:14
hannahさん、こんにちは。
私は高村光太郎の智恵子への愛の姿形を、最近受容し始めました。
今やっと若気が柔らかい成熟の時期を迎えようとしている、という感じでしょうか。
hannahさんの詩の世界に触れたせいかもしれません^^

Commented by hannah5 at 2006-02-07 00:51
*turezure_asagi さん、光太郎と智恵子は芸術家同士でしたから、
どちらも強くて、智恵子はその強さに負けたという人もいます。
普通、『智恵子抄』というと美化されて伝えられますが、
光太郎と智恵子の間にはかなりの葛藤がありました。
智恵子が精神を病み始めた時、疎開して一人で山小屋で自炊していた時、
光太郎はかなり孤独だったと思います。
私は20代の初め頃、かなり光太郎にのめりこみました。
私の詩の出発点は高村光太郎です。
光太郎に出会わなかったら、詩のすばらしさを知らずにいたと思いますね。
Commented by hannah5 at 2006-02-07 00:56
*nefeltahli さん、よかったですね^^
Commented by aki at 2006-02-08 11:18 x
はんなさんの詩から受ける大理石のような硬質感、nobleな感覚を同じように高村さんの詩にも感じました。はんなさんのルーツを見た思いです。
Commented by hannah5 at 2006-02-09 00:09
*aki さん、はい、私の詩のルーツは高村光太郎です。
一時は北川太一先生が主催してらした「高村光太郎研究会」に定期的に出席してました。
あれから、北川先生はいろんな発見をなさったようで、
光太郎研究家の第一人者になられましたね。

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