私の好きな詩・言葉(66) 「冬の日」(三好 達治)   


       ―― 慶州仏国寺畔にて

ああ智慧(ちゑ)は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」

秋は来り 秋は更け その秋は已(すで)にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでいた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だつた
さうして日が昏(く)れ 夜半(やはん)に及んでからも 私の心は落ちつかなかつた
短い夢がいく度か断れ いく度かまたはじまつた
孤独な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊(なや)んでゐた

さうして今朝は何といふ静かな朝だらう
樹木はすつかり裸になつて
鵲(かささぎ)の巣も二つ三つそこの梢(こずえ)にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきつて
それらの間に遠い山脈の波うつて見える
紫霞門(しかもん)の風雨に曝(さ)れた円柱(まるばしら)には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆(あいたい)として霞(かすみ)に消えた それら遥かな
巓(いただき)の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊(もこ)とした奥ゆきで
空間(エスパース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる

その軒端(のきば)の雀の群れの喧(さわ)いでゐる泛影楼(へんえいろう)の甍(いらか)のうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな聚落(しうらく)の藁家(わらや)の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
静寂をもつて相応(あひこた)へ 寂幕をもつて相呼びながら連つてゐる
そのこの朝の 何といふ蕭条(せうでう)とした
これは平和な 静謐(せいひつ)な眺望だらう

さうして私はいまこの精舎の中心 大雄殿(だいゆうでん)の縁側に
七彩の垂木の下に蹲(うづくま)り
くだらない昨夜の悪夢の蟻地獄からみじめに疲れて帰つてきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めてゐる――
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石塔(せきとう)の灯袋(ひぶくろ)にもありなしのほのかな陽炎(かげらふ)のもえてゐるのを

ああ智慧は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前にきて
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」




解説

最近読み始めた詩人。実を言うと、なかなかそのすばらしさが伝わってこなかった。この詩を読む私はまるで岩の扉の前で行ったり来たりしながら、何度も何度も扉を叩いて中に入ろうとしているかのようだった。しかし、幾度か読むうちに、ずっしりと重い輝くばかりの黄金の片鱗がほのかに見え始めた。今はまだ全体像を発見しに行く途中の段階という感じがする。

言葉が詩人の魂の奥から湧き上がり、私の腹のもっとも深い所をひたすら殴る。受けるこちらとしては腹に力を受けて立たないと身がもたない。私はこの詩を真っ向から読んで真っ向から好きになった。

三好達治は昭和初年、のちに「四季派」とよばれる、口語自由詩の清新体をつくりだしたグループのチャンピオンだったという。しかし、口語自由詩に対して危機感を抱いていたことも確かだったようだ。「口語自由詩は明治末に誕生し、大正末にはもうその標高の峠を一つ越えきって、下り斜面にさしかかっていたかと、私は思う。不才な私のような者も、自らを揣(はか)らずにたいそうそれを不安げに覚えたのを忘れない。何やら足もとは常に不確かであった。旗幟は不鮮明、前途に見透しなどもっていたのではなかった。形勢は今日もなおその斜面の上に継続し、同じ不安定不確かさを習慣的につづけているかと、私は思う。」(定本全詩集「巻後に」より)それにもかかわらず、日常語を自由に詩の中に取り入れ、使いこなす才能をもっていた。

「冬の日」は三好達治が朝鮮旅行をした際に書かれた詩である。読んでいるうちに目の前に静かで清涼な朝が広がった。

(集英社 『三好達治集』 あとがき、篠田一士「口語自由詩形の影の衛士」より要約抜粋)

年譜

1900(明33)  大阪市東区南久宝寺町1丁目番外22番地に、父政吉、母タツの長男とし生
           まれる。

1906(明39)  兵庫県有馬郡三田町の妙三寺の住職をしていた祖父母長谷川恵長夫妻のも
           とに引き取られた。

1907(明40)  4月、同町城跡の尋常小学校に入学。

1914(大3)   大阪府立市岡中学校に入学。先輩から手ほどきを受けて俳句を作った。『ホト
           トギス』 を購読した。

1922(大11)  京都の第三高等学校分科丙類に入学。萩原朔太郎や室生犀星の詩を耽読、
           ツルゲーネフの 『ルージン』 や丸山薫らの影響を受けて作詩を始めた。

1925(大14)  東京帝国大学文学部仏文科入学。同級に小林秀雄、中島健蔵、今日出海、
           淀野隆三等。

1926(大15・昭元)  東大生梶井基次郎、外村繁らが中心になって創刊した同人雑誌
           『青空』に参加。

1927(昭2)   卒業論文「ポール・ヴェルレエヌ 『智慧』 に就て」を仏文で執筆。安西冬衛の
           同人詩誌 『亜』 に参加。川端康成、萩原朔太郎、宇野千代らを知る。

1928(昭3)   東大卒業。萩原朔太郎の妹アイと結婚するためアルス社に就職したが、営業
           不振のため退職、結婚も断念した。文筆活動に入り、生活のためもっぱら翻
           訳に専念する。

1929(昭4)   エミール・ゾラ 『ナナ』 を翻訳。

1932(昭7)   3月、喀血。胸部疾患と心臓神経症のため、東京女子医専科付属病院に入
           院。

1933(昭8)   『ジイド全集』 のため、「アンドレ・ワルテルの手記」「アンドレ・ワルテルの日
           記」を翻訳。

1934(昭9)   佐藤春夫の姪智恵子と結婚。ボードレール 『悪の華』 を翻訳。

1943(昭18)  妻子と離別。

1944(昭19)  5月、萩原アイと結婚。

1945(昭20)  2月、アイと離婚。8月、敗戦。

1953(昭28)  2月、日本芸術学院賞を受賞。

1963(昭38)  1月、読売文学賞を受賞。

1964(昭39)  4月5日、前日、狭心症を起こして入院した田園調布中央病院で、鬱血性肺
           炎を併発して死去。享年64歳。

作品

詩集 『測量船』 『南窗集』 『開花集』 『山果集』 『春の岬』 『一点鐘』 『艸千里』 『朝菜集』 『寒柝』 『花筐』 『千戈永言』 『故郷の花』 『砂の砦』 『午後の夢』、短歌に 『日まはり』、随筆 『夜沈々』 『草上記』 『風』 などがある。

(小田切進編)
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by hannah5 | 2006-02-15 23:42 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(2)

Commented by aki at 2006-02-18 18:18 x
 何度も読みながら朝霧の向こうに見える淡い日本画…たとえば、竹内栖鳳さんの…を思い描きました。この時代の人達は、真似できないしゃんとした日本語を操っている、という感が。格調の高さに、愕然としますね。年譜に人間・三好氏の足跡が垣間見えました。
Commented by hannah5 at 2006-02-18 23:30
*aki さん、そう、この時代の人たちの日本語は重厚で美しくて
本当にのどから手が出てつかみたくなるほどですね。
こんな日本語がほしいと思います。

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