私の好きな詩・言葉(70) 「創世記-次女・万奈に」(吉野 弘)   


「お嬢さんですよ」
両掌の上にお前をのせて
産婆さんは私の顔に近づけた

お前のおなかから
ふとい紐が垂れ下がり
母親につながっていた

半透明・乳白色の紐の中心を
鮮烈な赤い血管が走っていた
お前が、ぐんと身体をそらし
ふとい紐はブルンと揺れた

あれは、たのもしい命綱で
多分
母親の気持を伝える電話のコードだったろう

母親の期待や心配りはすべて
このコードの中を走り
お前の眠りに届いていたにちがいない

母親の日々の呟きと憂いを伝えていた
そのコードの切れ端は
今、ひからびて
「万奈臍帯納」と記された桐の小箱の中にある

小箱を開くたびに私は思いえがく
ちいいさな創世記の雲の中
母親から伸びたコードの端で
空を漂っていたお前を


(『新選 吉野弘詩集』より)

私の好きな詩・言葉(69) 「早春のバスの中で」(吉野 弘)




「通勤」

朝、起きぬけの太陽は勤勉の炎
無数のまぶしい指先で
団地の窓をしつこく小突き
だるい夜明けの
だるい人々を
夢の畑から引っこ抜く

それから
黙々と働きに出る人々を
東の空から くっきり照らす 満足そうに
照らしさえすれば
人の心が隅々まで明るくなると信じきって!

ああ やりきれない善意の太陽
明るいばかりで暗さがない
人の心のヒダにある闇を知らない
その上 性懲りもなく太陽は
通勤途上の人々に
今朝もまた
マイクを突き出して
勤労意欲の調査でござる

人々はカンシャク玉を湿らせながら
吐き出すように答えるさ
くらしに疲れてなんかいないさ
蒸発したいなんて思ってもみないよ
日々がむなしいなんて考えもしないぜ
電車が止まれば歩いてでも通うさ

朝の太陽はご満足
太陽てえのは始末が悪い
明るさと希望と忍耐しか理解できない
とりわけ 朝の太陽は
気色悪いほど勤勉の炎でして―――



「声の大人たち」

外の人声―――
話しぶり、笑いかたは幼いが
声は大人だ。
重くてよく透る。
太くてよく響く。

休日の朝
私は眠りをさまされて
聞くともなしに聞いている。

真向かいの家の男の高校生に
友人が二、三人訪ねてきたらしい。
路上で
しきりに笑い、しきりに話している。

相談はまとまったらしく
声の大人たちは
やがて、どこかへ行ってしまった。

青年期のとば口の男の声は
なんと精悍な艶を帯びていることだろう。
声だけが早々と大人で
くらしは親掛り。
学校では大きな身体を折り曲げて
窮屈な勉強机に屈みこんでいる。

男の春は
迎える準備のないまま一挙に完成してしまう生理の
行き所(ど)ない充溢ではないか。
彼らはまず肉体から大人になる。
そして大人の扱いは受けず
顔は幼く頼りなく、かすかな反抗が翳り
声だけが力強い。
調教師に屈服する前の
若い獣の唸りのように。

その彼らの
屈託なく笑う声を
その朝
私は聞いた。
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by hannah5 | 2006-04-02 23:14 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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