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私の好きな詩・言葉(81) 「小景異情」 (室生 犀星)   


    その一

白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
なんといふしをらしさぞよ
そとにひる餉(げ)をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり

    その二

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

    その三

銀の時計をうしなへる
こころかなしや
ちよろちよろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり

    その四

わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる

    その五

なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舎暮しのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて
すもものしたに身をよせぬ

    その六

あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け


(室生犀星 『抒情小曲集』 より)




「父なきのち」

父をうしなつてから
わたしはやはり郊外にところを定めて
そこに寂しい日をくらしてゐた
聖フランチエスコの傳記や
カラマゾフ兄弟の中の
長老ゾシマの悲しげな臨終を讀んだりして
深い物思ひに沈んで
いまさらのやうに
蒼褪めた秋の木木の立つ姿を眺めたりした
じめじめふる雨は
僕の心を全きまで沈ませ
嚴しい精進の心を覆ふてゐた

晩は高臺の深い木立から
お祈りの人人をあつめる鐘が鳴つて
僕はいつものやうに出て行つた
父をうしなつてからといふものは
僕はかの會堂の中に坐つて
ぼんやりした想念に抱かれながら
身も心も平安に委ねることを好んだ
そこにある静かな人人の祈りは
たとへその形式がどうあらうと
眞摯な祈りの中に
たえず動いてくるものがあつた
それらは僕を静かに慰さめてくれた
僕は父のことを祈り
あとにのこつた淋しい母のことを祈り
ああ自分はいつ父のそばへ行けるのだらう
いつ父の胸にすがつて
父上私も參りましたと云ふ
此世の一切を終るべき時を得るのであらう
自分はその日まで欒しみ
又 生き永らへるのだ
その上で私は父の温顔を再た見るのであらう
かう思ひながら
永い間祈りかつ咽ぶのであつた
夜は澄んで透つて星は輝いてゐた
白い額と蒼い目を持つた
美しい西洋婦人の祈りは長い間續いた
全ての女性の祈りが美しく
殆んど聽きとれないほど敬虔に
又低い祈りであるが如く
彼女の聲もひくく殆んど啜泣くやうであつた
「主よこの一切の汚れの中にある私共に
あなたの清さとめぐみと愛と
そして又あらゆる人人の上にも
私共にくださるみ心を注いで下さるやう
その祈りは萬人の上にもあつた
その美しい日本語は
會堂の中に充ちあふれる愛を囁いてゐた

ここに集まつた人人らは
すこしの邪念のない
美しい瞬間の光をあびながら
欒しげに一切に祈り上げるのであつた
自分はからだを締めつけられたやうな
身動きのできない静かな緊張された空氣を感じながら
ありありと父の顔を描き出した
僕は自分の中にあるだけの力を出して
その力をもつて
温かな父の呼吸を感じることが出來た
私はうれしく搔き上りたい氣がした

私は間もなく心で囁いた
「主よ あなたの力をいま私に注ぎ込み
私の祈りをあなたにささげた瞬間
私の愛してゐるところを示して下さるやう
此全世界の高い鼓動の中から
私の優しい人の その愛あるところの
ほとばしる美しい目をお示し下さるやう
ああ 一切が平安の中に進みますやう」
私はこう祈り沈んで
病熱を帯びたやうに
會堂を壓する昂奮をかんじた
この瞬間全世界をよくなれといふ
つきることのない願望に震へ上つたのだ
あせははだみを流れた
そして私はうつむいて
力一杯聖書に接吻した
とどめがたい涙は偉大を感じながら
つきることなく僕の立つところを濕した。

(『感情』 より)


解説

室生犀星は18歳の時から72歳で亡くなるまで詩を作り続け、20冊を超える詩集と1300篇ほどの詩作品を残した。(大岡信「抒情詩の野生と洗練―室生犀星・佐藤春夫についてー」より)『室生犀星全詩集』 も3巻まであって、1巻はかなり分厚い。従って、それだけの詩の中から1、2篇の好きな詩をここにご挙げることは困難である。少しずつ読んで、気に入った詩があれば、また別の機会にご紹介しようと思う。

『抒情詩小曲集』 の「序」の中に室生犀星の次のような言葉がある。「この本をとくに年すくない人々に読んでもらいたい。私と同じい少年時代の悩ましい人懐こい苛苛しい情念や、美しい希望や、つみなき慈事や、限りない嘆賞や哀憐やの諸諸について、よく考えたり解ってもらいたいような気がする。少年時代の心は少年時代のものでなければわからない。おなじい内容は私のこれらの詩と相合してそして、初めて理解され得るように思う。みながみなで感じる悩ましさや望を追う心は、きっと此中でぶつかり合うように思う。・・・・私は抒情詩を愛する。わけても自分の踏み来った郷土や、愛や感傷やを愛する。・・・もとより詩のよいわるいはすききらいより外の感情で評価できないものだ。これらの詩がどれほどハアトの奥の奥に深徹しているかについて、今私は何もいえないけれど、人々はきっと微笑と親密とを心に用意して読んでくれるだろうと思う。むずかしい批評や議論ぬきの「優しい心」で味ってくれるだろうと思う。」


室生 犀星(むろう さいせい)

明治22年(1889) 石川県金沢市に生まれる。本名照道。父小畠与左衛門吉種、母ハル。父はもと加賀藩で足軽組頭として150石取りの武士、維新後は剣術道場を開き、師範をしていたこともあった。母ハルは小畠家の女中。吉種の妻はすでに他界していたが、当時60歳を過ぎていた吉種は30歳過ぎの女中ハルとの間に子をもうけた。世間への体面を恥じた吉種は、隣の雨宝院という寺の住職室生真乗の内縁の妻の赤井ハツに照道を渡し、ハツの私生子として届けた。

明治31年(1898) 父吉種死去。ハルはその夜、家を出たきり帰らなかった。照道はその後、2度とハルに会うことはなかった。(吉種は生前、聖書を愛読していたようだ。)

明治33年(1902) 金沢高等小学校を3年で中退。金沢地方裁判所の給仕となる。上司から俳句を教わった。

明治42年(1909) 『抒情詩小曲集』 の詩を作る。

明治43年(1910) 3月、金沢の石川新聞に入社。5月、退社して上京。

明治45年・大正元年(1912) 生活貧窮のため、たびたび帰省し、義父室生真乗より金を無心する。

大正2年(1913) 北原白秋に送った「壁上哀歌」と「時無草」が『朱雀』に掲載され、感動した萩原朔太郎より手紙をもらう。以後、二人は生涯の友となった。

大正7年(1918) 2月、とみ子と結婚。9月、『抒情詩小曲集』 を感情詩社から自費出版。

大正12年(1923) 関東大震災。金沢に移住。

昭和3年(1928) 義母ハツ死去。

昭和10年(1935) 第一回芥川賞の選考委員になる。

昭和23年(1948) 芸術院会員になる。

昭和37年(1962) 肝臓ガンのため死去。享年73歳。

(年譜は集英社 『日本の詩 室生犀星 佐藤春夫集』 による)

by hannah5 | 2006-08-04 23:54 | 私の好きな詩・言葉

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