私の好きな詩・言葉(84) 「風の説」 (大岡 信)   


風には種子も蔕(へた)もない。果実のやうに完結することを知らぬ。
わたしが歩くと、足もとに風が起る。けれどそれは、たちまち消える溜息だ。ほんとの風は、
  かならず遠方に起り、遠方に消える。
風には種子も蔕もない。果実のやうに熟すことを知らぬ。
風はたえずもんどりうつて滑走し、あらゆる隙間を埋めることに熱中する透明な遊行者だ。
それは空中に位置を移した水といふべきだ。

  *

雨後。浅瀬あり。
林をたどつていく。
色鳥の繁殖。物音の空へのしろい浸透。
石はせせらぎに潅腸される。
石ころの括約筋のふるへ。
石ころの肉の悩みのふるへ。
風のゆらぐにつれ
陽は裏返つて野に溢れ
人は一瞬千里眼をもつ。
風はわたしにささやく。
《この光の麻薬さえあれば
ね、螻蛄(けら)の水渡りだつて
あなたに見せてあげられるわ》
このいとしい風めが。
嘘つきのひろびろの胸めが。

  *

別の風は運んでゐる。
つひにまともな言葉にまで熟さなかつた人語のざわめき
ああいふ人語は
仮死状態だとなぜこんなにもなつかしいのか。

すべての木(こ)の葉の繊毛に
こんもり露をもりあげる
気体の規則ただしい夜のいとなみも
かすかなざわめきに満ちてゐるのではないか。

人間は神経細胞(ニユーロン)の樹状突起をそよがせて
夜ごとあられの樹の液と
ざわめきを感応させてゐるのではないか。
そしてたがひのあひだには
もんどりうつて滑走し、あらゆる隙間を埋めることに熱中する透明な遊行者が
ふかい空間の綱を張ってゐるのではないか。


(詩集 『悲歌と祝祷』 より)




解説

この詩を読んだ最初の感想は、腹に感じる、だ。捕まえることのできない風が、私の腹の奥底に吹いてあたり一面に触れて行き過ぎる。この感じは三浦雅士氏の鑑賞と説明を読んで、具体的にわかった。(長い引用になりますが、全文を拝借します。)

「風の説」は1971年3月5日号の 『朝日ジャーナル』 に発表された。風は「空中に位置を移した水」であるというのは、まさに大岡信らしい発想というべきであろう。第一章は『透視図法―夏のための』に収録された「接触と波動」を想い起させる。「風には種子も蔕もない」というのは要するに風は果実のようなものではないという意味だが、流れるものと留まるものとの対比を強調するとともに、それをリズミカルに断定したかったのだろう。七五である。二度繰り返されることで第一章が引締められている。第一章末尾の「空中に位置を移した水」が第二章冒頭の「雨後。浅瀬あり。」に接続する。大岡信は改行の詩には句読点をあまり用いない詩人だが、備忘録ふうの書き出しが句点を要求した、あるいは第一章に従ったかだが、いずれにせよ「雨後」と「浅瀬あり」が鋭く切断されたことによって時間と空間が一挙に広がりを見せる。その広がりのなかに林が浮かびあがってくるわけだ。次に、色と音が登場する。これも「接触と波動」を思わせる連結である。音がせせらぎを呼び寄せる。そして登場するのが「石はせせらぎに潅腸される」という卓抜な一行である。連結と切断を合わせ持った一行。言われてみればその通りで、これを別な言葉で説明しようとしてもはじまらない。この滑稽さとエロティシズムが次の行またその次の行と続くわけだが、この過程で石が擬人化される。だが次の三行はこの流れをとりあえず断ち切って、広々とした野原の風と光の戯れを見せ、滑稽さとエロティシズムは風のささやきまで持ち越される。螻蛄は昆虫の一種で別名おけらだが「螻蛄の水渡り」で極り文句。出来そうもないことの譬えで、「光の麻薬」でそれが出来るというのだから、風はまさに妖精、それもユーモラスで色っぽい妖精である。最後に風が「ひろびろの胸」になるに及んで、エロティシズムが完成する。「透明な遊行者」はここでは女性的なるものの象徴に転じている。「彼女の薫る肉体」『あだしの』を思わせるというべきだろう。大岡信は水であれ風であれ包まれようとする詩人なのだ。第三章は一転して夜の風、内面空間の風である。風はここでは人々や樹々の、声にならない声を運ぶものである。リルケの『ドゥイノの悲歌』に「おお、それに夜というものがある、世界空間をはらんだ風が/わたしたちの顔を削ぎとる夜」(手塚富雄訳)という一節がある。風はふたたび人間を超えた「透明な遊行者」となって「ふかい空間の綱を張ってゐる」のである。

風が水をともなって変幻するこの作品は、四大元素ならぬ二大元素によって結果的に人間とその世界を描き出しているといってよい。詩句に密着するように読んできたのは、この詩がさまざまな色合いの言葉を持っていることに注意を促したかったからである。リズミカルな声。批評的な声。備忘録ふうの声。文語的な声。擬態語。女のささやき。男の呟き。孤独な自意識の声。闇の声。この多様性の背後に、大岡信がその戯曲や散文や古典論で穫得してきた思想と方法がぎっしり詰っていることを忘れてはならない。

(三浦雅士鑑賞「大岡信」、『現代の詩人11 大岡信』 (中央公論社)より抜粋)


大岡 信(おおおか まこと)(1931-)

詩人。静岡県生まれ。
詩集に、『記憶と現在』 (1956)、『大岡信詩集』 (1960、1968)、『わが詩と真実』 (1962)、『彼女の薫る肉体』 (1971)、『透明図法ー夏のための』 (1972)、『遊星の寝返りの下で』 (1975、『悲歌と祝祷』 (1976)、『春 少女に』 (1978)、『水府 みえないまち』 (1981)、『詩とはなにか』 (1985)、『ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる』 (1987)、『故郷の水へのメッセージ』 (1989)、『火の遺言』 (1994)、『光のとりで』 (1997)、『世紀の変り目にしやがみこんで』 (2001)などがある。他に、『日本の古典詩歌』 (全5巻・別巻1)(1999~2000)、『詩への架橋』 (1977)、『連詩の愉しみ』 (1991)、『折々のうた』 (1~10)『新折々のうた』 (1~7)(1980~)、『声で楽しむ 美しい日本の詩』 (共編)(1990)など。著書・編著は多数。
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by hannah5 | 2006-09-19 20:10 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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