私の好きな詩・言葉(88) 「蟻」 (小池 昌代)   


  ねくたりんを手にとって机上にころがすと、心臓もないのに、とくとくと音をたてて官能的な匂いを畳みながら、テーブルの端でかたりと止まる。このくだものの小さなふてぶてしさ。止まったところに自分の影をさっとのばして、はりあうようにたたずんでいるのは、沈んだ赤身の、憎々しい美しさだ。
  果実のなかに、セルロイドの輝く坂道が伸び、その切っ先が尻の先から、果実をささえる机上に触れている。接点という接点が熱をもち、すべての関係がそこから腐敗するように、果実も尻から静かに老いていく。蜂蜜のようにとろりとした意志を、音もたてずに表皮の外にこぼしながら。
  私は机上のくだものを手にとり、危ういばかりの様相に魅入る。もがれた後、その枝の高さに、果実は再びのぼることはできない。地上に落ちて食物となった今、高く手を掲げて表皮を透かせば、彼女の内から非常に繊細な、違和感を叫ぶ金切り声がする。
  口に含めば果肉には、幽かで幼い甘みがあるが、皮と果肉のあいだにある酸味が、一層つよく後味に残り、果実の性質に地味な寂しさを加える。見送った特急列車の窓のひとつの、印象深くもないはずの男の横顔が、なぜかなつかしいものとして目のなかに残るように、ねくたりんの甘みは舌に感知され、そのあとにやってくる鋭い酸味が、鞭のようにこの果実を厳しくしつけている。
  もがれた果実は夜に含まれている。朝の果実は健康な右手で、夜のなかから取り出さねばならない。夜気を含んだねくたりんはおもい。がりり、とかめば空気がくずれ、もがれたのちの果実の歴史が、果実の内部を逆流していく。
「この坂道を転落していけ」
  テーブルのうえには惨劇のあととして、瘤(こぶ)状の種がころがっているばかりだ。
  果肉がまといつき、毛羽立ったねくたりんの種に、やがて一匹の蟻が這い上がってくる。 
 
( 『現代詩文庫 小池昌代詩集』 より)




ひと言

散文ともエッセイとも違う「散文詩」というものがあるのを知ったのはごく最近のことだ。さて、では、その「散文詩」とは何かということになるが、野村喜和夫は 『現代詩作マニュアル』 の中で次のように書いている。

「もともとは韻文詩に対立する概念として、韻律をもたない散文で書かれた詩、つまり口語自由詩全般を指したとされるが、その後、そのさらに下位区分として、行分けされない口語自由詩、いわゆる散文スタイルの詩を指すようになった。つまり散文詩とは、余白の否定である。余白は余白で意味深いものがあるはずだが、散文詩の書き手はあえてそれを捨て、その代償を求めようとする。物語性や寓話性、場合によっては論述性などである。もちろん、物語性なら物語性をそのまま打ち出したら半端なショートショートのようなものになってしまうだろうから、多くの場合その物語性は、断片化やパロディー化に晒され、あるいは脱臼させられたりする。そこに詩的なものの発生がもくろまれ、そこから逆に詩への帰還が果たされてゆくのである。今日では多くの詩人が散文詩を試みている。」

私もそのうち散文詩を書いてみたいが、今は学びの時と思って、詩人たちの書いた作品を眺めている。小池昌代の作品の中から、「蟻」を選んだ。全体に比喩が混ざっているのに、ぽってりとした果肉、かすかな甘み、鋭い酸味が印象となって伝わってくる。いつものことながら、比喩がすばらしい。


※思うところがあって、しばらくコメント欄とトラックバック欄を取らせていただきます。
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by hannah5 | 2006-11-03 23:19 | 私の好きな詩・言葉

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