私の好きな詩・言葉(90) 「喝采」 (斎藤 貢)   


喝采
    ヴァイオリニスト天満敦子に


あなたへと
喝采は
とめどなく沸き起こるが
それを
物語と呼ぶには
余りにも哀切な調べ。
音楽は
永遠に
満たされぬこころを
嗚咽のように
あなたの胸に
置き去りにしたままである。
ヴァイオリンを片手に
あなたは
舞台の上でそっと目を閉じる。
脳裏に浮かんでくるのは
首都ブカレストの雪。
あるいは
ドナウ河に降る雪。
カルバチア山脈から吹いてくる
あの懐かしい風の匂いである。
ルーマニア北部のモルダビア地方
ここでは街全体が
初雪に白く包み込まれている。
あるべきはずの家族が
ここには存在せず
傍らにいるはずの恋人もいない。
ただあるのは
バラードの作曲者
ポルムベスクの楽譜のみ。*
奏でられない音楽は
あるべきものたちの不在を告げている。
形あるものたちの不在。
肉体の不在。
愛の不在。
形あるものは
いつかは滅びるのだとしても
形をなくして
生き延びる旋律は
時空を越えて
あなたとひとつになり
どこにも存在しない音色。
あなたのヴァイオリンの
震える吐息そのものになっている。
切ない愛の調べは
あなたが
魂の旋律と重なる
陶酔のひとときでさえある。
虚ろな肉体のあなたが
ヴァイオリンの風になるとき
きっと神は
あなたのそば近くにいるのだろう。
恩寵の
あなたは風。
あなたは再び喝采に包まれるだろう。
音楽堂に響く哀切な調べは
バルカン半島に吹き渡るヴァイオリンの
甘美な風の調べとなり
形をなくして嗚咽する
あなたは
震える楽器そのものとなる。


* 「望郷のバラード」ルーマニアの作曲家ポルムベスクの作。日本では天満敦子のヴァイオリン演奏による楽曲として知られる。


(斎藤 貢詩集 『モルダウから山振まで』 より)

燃える





暗い森


こんなにも
雪の降りしきる
あなたの暗い森を
だれも知らない。
糸杉も
メタセコイアの太い幹も
白い雪のキャンバスの中に埋もれている。
森はこれから
どれほどの深い眠りにつくのだろう。
雪が美しいのは
全てを眠らせ
記憶も
時間も
思い出も
沼のように
魂の奥処に深く沈めるから。
存在の痕跡を跡形もなく
消し去るから。
ひとは
寂しさを
どれほど内側に抱え込めるのだろう。
過去もなく
未来もなく
雪は降り続け
あなたは森を閉ざそうとしている。
かつて
森の糸杉を切り倒し
大きな箱船になったあなた。
脳裏に焼き付いているのは
世界に対して
限りなく開かれていく
あなたの森の
神話。
あるがままに生きるとは
難しいことだ。
踏み出しては
立ち止まり
そのたびに眠りは
いっそう深まっていく。
雪に眠ることは
忘却することであると
森は教えてくれるだろう。
覆い尽くしている雪がとけて
雪解けのせせらぎに流れる春の縁(えにし)で
あなたに
御伽噺の森の妖精は
見えるのだろうか。
森の雪がとけるように
目覚めると
あなたはにっこりと微笑んで
わたしの目の前にいる。
あなたの暗い森に
天から
いまも雪は降り続いているのだろうか。



薔薇


何億光年もの悲しみを
器に満たして
進化の果てに
ここまで辿り着いた
薔薇の花。
あなたが虚ろなのは
神の器のなかに
永遠というものが
どこにも存在しないからである。
あるのは
容器としての空虚な実在とか
器の美しさという幻。
だから
見られるたびに
あなたは花弁の背をそらし
呼吸をひとつ整えながら
どこか遠いところをみつめる
しぐさになる。
ここではない場所
ここから遠く隔たっているところに
存在したかもしれない
あなた自身の姿を思い起こしているのだ。
何億光年もの予定調和である
あなたの身体。
器の形に
薔薇は薔薇であることを厭うのであろうか。
ここは
いつも夜の気配で
時間は傾斜をいっきに滑り落ちている。
夢を脱ぎ捨てながら
時間をも脱ぎ捨て
最後には
薔薇であることまでをも脱ぎ捨てて
あなたは
一輪の裸の花弁。
無名の器となる。
やがて
何億光年もの悲しみを湛えた
冷たい器から
永遠の重みに耐えかねて
薔薇は静かに
匂い始めるのだろう。
花が花であるために
あなたがあなたであるために。


ひと言

美しく硬質な言葉がそこにある。私は言葉の前で立ち止まり、言葉が自ら扉を開くのを待つ。言葉はやがて静かに開き始める。だが、そこに広がるのは言葉の圧倒的な力と荘厳な世界。私は我を忘れて、言葉の不可思議さと摂理に耳を傾ける。言葉は次第に消え、私は異国の風景を旅し、深い森の孤独を歩き、薔薇が薔薇であるための運命を聴く。

こんな言葉に出会えることをずっと待っていたのだと思います。

斎藤貢さんの経歴はこの本からはわかりません。しかし、斎藤さんの言葉だけで充分ではないかと思います。
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by hannah5 | 2006-12-02 15:44 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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