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私の好きな詩・言葉(93) 「夢の皮膜」 (斎藤 貢)   


うっすらと、夢の皮膜があなたの身体を覆っ
ている。夢だから、すべての輪郭があいまい。
記憶もあいまい。月明りに照らし出された樹
木のように、のっぺりとしたあなたの全身像
が、わたしの記憶の枝葉を掻き分けるように、
舞台の下手でうっすら。たぶん始まりはいつ
もこういう照明装置だったのだろう。遠くて
近い、あなたの羊水の海がうっすら。明るん
でいる。小舟のような容器に揺られて、わた
しの夜もうっすら。夢の飛沫に、いくたびも
濡れている。

フェード・アウト。

身体ごと海になったような、 あるいは、風に
なったような、ゆるやかな弛緩とうねり。不
定形のものたちのささやきがあちこちで谺す
る。夢の入り江に寄せる波と返す波。効果音
も風の手ざわりも快い。舞台の中央で、たと
えば、あなたは暗い入り江になる。その湾曲
するあなたの夢の身体に潜り込むわたし。す
るとそこでは、笹舟のようなわたしの全身が、
寂しい水音をたてながら、うっすらとしたあ
なたの内部を流れ下っていくのがわかる。

暗転。

夜の薄い衣をまとって、夢の皮膜に包まれな
がら、うっすら。わたしは網の目状のあなた
の意匠を思い出す。あなたの顔、あなたの指、
あなたの肩、あなたの胸。あなたの腰の辺り
では、いちじくの葉ずれのざわめきがして。 
アダムとイブのように、互いの名を小声でそ
っと呼びあいながら、全ては、うっすら。夢
幻に過ぎないものを、わたしたちはひたすら
求めあう。引きあう力は重なり合う幾重もの
わたしたち。あいまいな意味やかたちの、そ
れもうっすらとした外側の部分。わたしたち
はもっと言葉のように虚ろな容器となって、
舞台の皮膜で浮遊したいとねがう。

フェード・イン。

言葉の海に潜りながら、わたしたちは水に溶
けていく言葉のひとつ。波の飛沫になる。全
身が水の泡のごときものならば、どこからが
夢の皮膜で、どこまでを夢の内実というのだ
ろう。あなたは、鬱蒼と繁る森。あるいは、
そこから抜け出た一本の樹木だから、ねじれた
枝葉をねじったり、折り曲げたり。畳んだり。
眠りから覚めて、一日の始まりに備えている。
ささやかな朝食は一切れのパンとスープ。掬
いとる夢のかけらのようにはかないスープの
上澄み。その軽くて、淡い舌の感触を口に含
んで、わたしたちは、夢の皮膜から起きあが
る。引き潮が、音をたててわたしたちから奪い
取る。夢の皮膜のあいまいな、うっすら。


(斎藤 貢詩集 『蜜月前後』より)




もう一編


「ことば」


裸のあなたに触れながら
あなたというものに
少しも触れていない気持ちがするのは
どうしてなのだろうか
あなたについて語ろうとすると
どんな言葉も
あなたを素通りしてしまう
あなたが巧みに
言葉をかわそうとしているわけではなく
紙のような
一枚の薄っぺらな平面には
納まり切れないものだから
あなたの全体を閉じ込めてしまえる
言葉が見当たらない
あなたについて語るくらいならいっそ
ただ黙って眼を閉じて
あなたの出生から死までの物語を
物自体を遠ざけながら
考えてみたい
始まりと終わりの物語が
いつもスリリングにくつがえされる
ありえないことだが
まるで綱渡りのアクロバットを演じるように
あなたはいつもそのようにして
わたしの前にいる
あなたという特異性と
特異であろうとするあなたと
物自体であるあなたと
裸のままでいるあなたと
わたしはうまく理解しあえるだろうか
言葉は透明な媒体ではなく
言葉によってむしろ
あなたという輪郭が切り取られるのだから
あなたの名を呼んで
あなたの長い管を明るみに出したい
それなのに
すべてを言葉で掬いきれない逆説を
あなたは生きている
裸のあなたに触れながら
あなたというものに
少しも触れていない気持ちがするのは
そのためなのだろう
あなたの長い管や
細胞のひとつひとつに
幾通りもの言葉がからみついて
掬いとれない
切りきざむことができないのは
曖昧なあなたとして
多義的なあなたとして
あなたが生きている証拠だから
わたしはその度に
あなたを書き換えて
あなたの名を書き換えて
幾通りものあなたについての解釈を
丹念にノートに書き留めているところだ


ひと言

モルダウから山振まで』 (2006年3月刊)より前の1999年に出された斎藤貢さんの詩集。斎藤さんの他の詩集も読みたくなって探し、 『密月前後』 を見つけた。こちらの詩集も言葉が美しい。たぶん恋人から妻になった女性に宛てた愛の書であろうと思う。全篇から愛する思いがこぼれてくる。

「夢の皮膜」はエロティックでありながらそれだけにとどまらず、精神世界の深みにまでおろした秀逸な作品。男女の愛の究極は精神と肉体の曖昧で浮遊した交歓だろう。その境目を論じることは野暮というものだ。

by hannah5 | 2006-12-28 23:09 | 私の好きな詩・言葉

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