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私の好きな詩・言葉(104)「タゴールの黄色い葉」(岡野 絵里子)   


 酸素マスクの内側で 病人の口はがっくりと開いてい
た 眠りを満たしていた温かな気配が ふっと背を向け
て歩み去り うつろな肉体だけが残されて二日目の夜 
病巣を包んだ骨と皮が 冷たい湿度を帯びて 微かに収
縮を繰り返していた

 病室の小さな丸椅子に 私は腰かけていた 死の傍ら
に 夜の重い泥の上に 見知らぬ土地に来た旅人のよう
に たった一人で

 私は鞄から折りたたんだ紙を取り出した 友人から和
訳を頼まれた タゴールの四行詩だった

 Stray birds of summer come to my window
 To stay and fly away
 And―――
 (迷える夏の小鳥たちが 私の窓辺に飛んで来て
  さえずり また飛び去って行く
   そして―――)

 手の中の素朴な言葉の並びを 私はじっと見た ベン
ガルの砂埃を避けるかのように 目を細めて

 読み取り難い 走り書きの一篇の詩があることを 私
は喜んでいた 臨終に近い人の枕許にいて 悲しまない
ですむことに その手を取らずにすむことに 私はほっ
としていた そのくせ人が死ぬという理不尽を 冷たく
激しく怒っていた

 数キロ離れた家では 疲れた家族が眠っている さあ
さあ ざあざあ 丈高い草を押し分けて 何かが近づい
て来る気配 ざあざあ さあさあ やがて私もうっとり
した眠気にくるまれた

 しんと明るい丘の上に 一本の大樹が見える 他には
何もない ゆっくりと丘を登り 巨大な心に似たものを
見上げると 異なる形の とりどりの緑の葉々が 祝福
の雨のように 私の身体に注がれた

 音をたてて降る無数の葉 そして私も その一枚なの
だった 世界のはずれの小枝に芽吹き 柔らかな体を起
こして 陽を浴びる小さな緑 朽ちて地に伏しても 再
び梢に生まれ出る葉 噴き上がる喜びの形になって 繰
り返し 繰り返し・・・・・

 時間はそこにじっとしていた 酸素マスクの水滴と 
私だけが動く病室 だがそれでよいのだった 葉が枝か
ら落ちるように 人も皆 両手を離して舞い降りてよい
のだった

 しわになった紙片は 小鳥のように歌っていた

 Stray birds of summer come to my window
 To sing and fly away

 小鳥が思い切りよく飛び去ると もの静かな詩人の窓
に 枝を差し伸べる木が見えた

 And yellow leaves of autumn, which dare no songs,
 Flutter and fall there with a sigh.
 (そして 黄色い秋の葉は
  歌を歌いはしないけど 羽ばたいて
  ため息ついて 散りかかる)

 そうだったのか 秋の黄色い葉 隠されていた言葉
は 私たちの姿は

 微かな草の擦れる音をたて 酸素はチューブを通り 
癌細胞の奥のどこかへ届こうとしていた 私は友人に電
話をしようと思いながら 目を開けていた 夜はまだ厚
く長かった


(岡野絵里子詩集 『発語』 より)




3篇


「通り過ぎる少女」


 ゆるやかな坂を少女は登ってきた 縁の広い夏の帽
子から 長い髪を風に流し 揺らめく城を沈めた 藍色の
湾の底から

 私は今 この坂を下りているところだ 陽の色の実を
つけた木々を分けて ぽっかりと現れた 海へとひらく
白い坂 夏の瞼が持ち上がり ゆっくりと

 少女は 私とすれ違った

 まっすぐに背を伸ばし どこか遠い 一本の木の光を
見つめる目をして

 さらわれたように 私は記憶に溺れた 私は誰とすれ
違ったのだろう 傷のように刻まれて 風のように見知
らぬ一人の少女 日々から最も遠い場所で 静かに熟さ
れていた時間 それは不意に 思いもかけない姿で現れ
るのか 例えば香る麦わら帽子をかぶって

 「聞いて」と声が囁く 古い鏡の中から 黒板の落書き
の陰から 「私は通り過ぎて行く」

 通り過ぎて行く それだけで

 真昼 日傘が淡い翳りをつくる 私は向きを変えて
また下り始める 海まで ただそこに広がる海まで



「点灯夫」


ロシアの小説を開いてみると
靴屋が靴を縫っていた
十九世紀の地下室で

窓の外では
老兵が雪かきをし
林檎売りと少年が通り
それから
点灯夫が灯をともした

靴屋が革の切れ端を
片づけ始めた時

私にも
夕暮れが差し出されていた

食卓を整え
門灯をつけると
私も灯る

ほの赤い発光のまわりで
夕暮れは濃くなり
ゆっくりと
喪中の家の門灯も掲げられる

夜は永遠を開く扉

見えない点灯夫が立っている
見えない点灯棹を
扉にちょっと立てかけている



「忙しい砂糖入れ」


 晩冬の光を浴びて 砂糖入れは忙しい 注ぎ込まれた
上白糖を管理し キッチンの調味料棚で 誠実にその位
置を守っているのだ 容器の中は甘く重い 湿気を帯びて
沈んだ砂糖粒が固まり合い 白い遺跡となって埋もれて
いるのが悩みだが おそらくこのまま 大切に保管され続
けることだろう

 「甘み」それこそが世界の根幹だと 砂糖入れは思う
その根幹に関われることが誇らしい だがそれでいて 
「砂糖入れである自分」について考え始めると 体が揺
れ どこか冷たい場所へ運ばれていくような不安に襲わ
れる 自分は生き甲斐と不安を同時に抱える神経症にな
ってしまったのだろうか そう思う時 砂糖入れはいっ
そう仕事に精を出す

 砂糖入れはキッチンの窓から夜を眺めるのが好きだっ
た 陽が傾くと 張りつめていた自分も柔らかく暮れて
いく やがて風景が紺色に満たされると 全てが正しく
納まったと思える だがその時刻は 様々な野菜や魚が
取り出され 鍋が並んで煮える 沸き立つような慌しい
仕事の時間でもあるのだ

 微小な実を房状につけた低木 草とガソリンの匂いを
運ぶ風 土埃 とりとめのない物語に似た光景を この
頃砂糖入れは巡らせるようになった 冬が終わりかけて
いるせいかもしれない 水に溶けやすい無数の結晶が眠
りから醒め さらさらと崩れるのが春だ 生真面目に砂
糖入れはその気配を聴いている

 光景は遠く近く流れ 一年前には 紺色のブルーベリ
ーのジャムを詰めたびんだったことも 記憶の彼方だ




ひと言

第17回日本詩人クラブ新人賞を受賞した詩集。「詩学」5月号で紹介があって、透明で美しい言葉の響きに惹かれた。選考委員の一人、森田進氏が次のように評しておられる。「感受性のみずみずしさは、表現の繊細さと若若しさと相俟って、しかも他者への深い関心に支えられている。いわば文学の基本に据えられるべき正統な志が健やかに息付いていて、圧倒的であった。」

詩集を開いて読んでいたら、早朝の山の風景が目の前に浮かんだ。山はまだ霧に包まれている。やがて霧は太陽が昇るにつれて消えていくだろう。自然の息づかいの中で時間がゆっくりと過ぎていく。岡野さんの詩を読んでいたら、そんな光景の印象が心の中に残った。

心と等身大の言葉が並んでいる。私の詩の心情に近いものを感じて何度も読んだ。これからの詩作にいろいろな示唆を与えてくれた詩集である。




岡野 絵里子(おかの えりこ)

1958年、東京生まれ。現代詩との出会いは高校時代。国語の授業で習う近代詩より新しい同時代の言葉を、参考書の隣で平積みになっていた現代詩手帖に発見する。牧神社主催の詩の教室(清水哲男氏、荒川洋二氏が隔週の講師)に参加するも、夜7時から9時までという時間帯を両親にえらく叱られる。出席したことがばれては謹慎させられの繰り返しだったため、清水哲男氏の週には行けずじまい。大学では心理学を専攻、卒論のテーマは流行語。心理学の実験をしつつ、在学中に第一詩集を刊行。またも両親に屋根が飛ぶほど怒られる。以来くじけず「ERIKOのE」紫陽社、「ベーグルランド」花神社、日英韓対訳詩集、英連詩集など。大学図書館、学長秘書の勤務の後結婚、滞米生活を送る。帰国後、医療事務をつとめ、翻訳、評論も。詩誌は「幻視者」「地球」などを経て、現在は「ERA」「白亜紀」に所属。日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本ペンクラブ他会員。(「詩学」5月号よりコピー掲載)

by hannah5 | 2007-05-11 23:40 | 私の好きな詩・言葉

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