私の好きな詩・言葉(108) 「草子」(城戸 朱理)   


草は、夏。
忘れられぬものを匿すなら
文目(あやめ)も分かたぬ時刻を待って
夏草に足を取られつつ
けれども、あなたは
一心に物言わぬ虫を捕えていた

このあたりが、その草むら
あのあたりから麦の穂が波打って。
「あのあたり」と指さすのは女、
そのあたりに往時が沈み
過去の消息がとどめられ
目に見えぬ草子が
束ねられている、という

くいな敲(たた)く、夜。

草も、夏。
山は森で自らを覆い
護るために、鎧(よろ)い
人もまた――
草深く閉ざされたはずの消息は
だが時おり、渡る風に
暴かれる
しなつひこ、風の神
それは酷い戯れ

「戯れよ」
それは誰の声だったのか
高からぬ声は戯れ、という断じるだけの
諦めだったのか  それとも
戯れなさいという
かなわぬ行いを命じるものであったのか
追い風 逃げ水 迷い頃
あのあたり、幻の古い湖沼があって
(秘められて)
薄い薄い殻が透けるような貝が静かに沈み。

酸塊(すぐり)の実を噛んで
渇きを癒しては
あなたは虫を追う
笹原を走るから臑(すね)に赫い傷は増え
そこまでして、いったい何の
来歴を追おうというのか?

くいな敲(たた)く、

緋秧鶏(ひくいな)
火喰う
低い、夜に――

蜩(ひぐらし)、誰彼(たそがれ)、迷い頃
忘れたいものを匿すなら
文目も分かたぬ時刻を待って
いっさい形がなくなるように。
暑熱をくわえこんだまま
蒸れてはびこる菌糸のように
あったことを、そうであったと
誰かに口にされることがないように
そのあたり、聖(ひじり)の験徳さえ衰えて
自らを腐らせては
滋養とする草々、
芳香を撒く白いものが舞ったら
それは偽(にせ)の雪。
ある人は蛍だと言い、
ある人は鬼火だと噂する
どれも偽の消息。
あなたは風になぶられて
少しずつ昔へと還っていくようだ
その素振り、その身振り
何か見知らぬ人形(ひとがた)の
脱け出た魂を見るようで

草には、夏、
暮れても微かに賑わって
あなたもうっすら汗に包まれる
幽陰の世から流れ出る水、それが闇。
緋秧鶏、火喰う
低く、夜に響く声
たとえその日暮らしの身にも
自分の輪郭を追うだけの日々は
内奥を覗き込むだけの朝夕は
その身を薄く殺(そ)ぐだけで
あなたのからだは もう
草叢(くさむら)にほとんど透けていくようだ
忘れられぬもの、
忘れたいものの間(はざま)にいて それだけに
その岸辺に舫(もや)りつづけては
あなたはもう、光のない
微かな物音のようで 魂は薄く透き
大過なく 小さな橋の上で
静かに賑わうほかはない
徒労と言うには
あまりに一心に。
戯れと呼ぶには あまりに
冷え冷えと。
草は、夏。
風聞は偽の雪、
舞っては、日暮し、迷い頃
あなたは滅ぼす、
あなたの岸辺以外のものを。
「戯れよ」
その声は低く 枯川を流れ
神来(かむらい)なき小さな国を
閉ざしていくようだ


( 『現代詩文庫 城戸朱理詩集』 より)






「草子」

 短いものであるだけに、夏がもたらすのはひときわの鮮やかさ。それを一心に感受しようと努めるためか、記憶のなかでその風光はあまりにも鮮明なものとなる。
 少年の身の丈ほどもある草むらをかき分けるとき、そこには何か見てはならぬもの、知ってはならぬことがありはしなかっただろうか。今となっては、そのすべてが揺らぐ夏草のなかの曖昧な幻に過ぎないとしても。



ひと言

こんな話を読んだ。

「確か、大雪で東京の交通機関が麻痺した二月の深夜。私達はマガジンハウスのビルの一室に缶詰になって書評を書いていた。目の前には二〇〇冊ばかりの本が重ねられていて、翌日の朝までその山を崩して原稿にしなければならなかった。東銀座、しかも外は雪。となれば、もはやアルコール依存症に片足どころか両足を突っ込んだ互いの顔を見ては、「どうする?」となるのだが、その日は違った。殺人的な締め切りに私も城戸さんも無口で、ひたすら原稿用紙のマスを埋める作業を続けた。・・・・・その雪の深夜に、あることを発見したのだ。
 呼吸。城戸朱理という男の呼吸の仕方だ。
 それは普通の者達とは違って、恐ろしく一呼吸が長いものだった。呼気の時が短く、呼気の時に細く絞り出し締めるように長い。しばらくの間、私は煙草を吸いながら、そんな彼がペンを走らせる姿を見つめていたのだが、その呼吸は私の知る限り、武道や禅のやり方だった。しかも弓道や空手や剣道に共通する、一見聖謐に見えるが狙った的を逃さないための攻撃的な呼吸だった。
 午前二時を回る頃、「城戸さん、これ終わらないよ、無理だよ」と、私が編集部からの差し入れの寿司を頬ばりながらいった時、初めて彼は顔を上げて凍りつくような冷たい視線を無言でくれた。たぶん、意味はこうだったろう。『あんた、書き手だろ? プロなんだろう? これをこなせないやつは俺の知っている藤沢周じゃない』/紳士然として柔和な物腰の男は、その仕立てのいいジャケットの下に攻撃的な呼吸をする獣を飼っている。私は寿司を食うのを中断してひたすら書いたのを覚えている。」
(藤沢周「城戸朱理という男」( 『城戸朱理詩集』 の「詩人論・作品論」)より抜粋)

これを読んで、ますます城戸朱理という詩人が気に入った。というとおこがましいが、詩にせよ、作品論にせよ、あるいはほぼ毎日更新しているブログにせよ、私は城戸さんの仕事ぶりが好きである。仕事をする時、こんなふうに冷徹になってする姿勢はその人が職業意識を持って仕事をしていることを感じさせるし、物書きとしてやっているからには「攻撃的な獣」のように仕事をする人は信じられると思うからだ。

何週間か続けて城戸さんの詩を読んでいるが、読めば読むほど、城戸さんが真面目に詩という仕事に取り組んでいることを感じて、私も真面目に城戸さんの詩に向かっている。城戸さんの詩は硬派の男性の詩だと思う。



城戸 朱理(きど しゅり)

1959年盛岡市に生まれる。十代の終わりに西脇順三郎の詩と出会って詩的彷徨を、二十歳のときエズラ・パウンドを読んで詩の咆哮を知る。同じころから詩を書き始め、同人誌「洗濯船」(82~87年)に参加。その後、吉岡実の知遇を得て、詩の現在を意識するに至る。詩集に 『召喚』 (85年)、『非鉄』 (93年)、『不来方抄』 (94年、歴程新鋭賞)。他に『召喚』、異本としての選詩集 『モンスーン気候帯』 (91年)、吉岡剛造との対話 『木の骨』 (93年)、講演録 『詩人の夏』 (94年)がある。(『城戸朱理詩集』 より抜粋)

城戸さんのブログ: 城戸朱理のブログ
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by hannah5 | 2007-07-14 23:47 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(2)

Commented by ポピーの詩 at 2007-07-15 14:07 x
はんなさん、こんにちは。
今回の城戸朱理さんの詩を読んで、子供の頃、山登りをしている時を思い出しました。
すごく丈のある草むらに分け入りながら歩いていました。
その時は昼間でしたけど、妙にしん、としている中でキリギリスなど
虫の声がやけに高く響いていて、不思議な怖さを感じました。
草の香りとか、くいなの鳴声とか、薄闇の湿り気などと一緒に、
草むらの持つ魔力のようなものが、この詩からたちのぼってくるようでした。
イマジネーションがふくらみます。
この詩が朗読されるのを聴いてみたい、と思いました。

*城戸朱理さんの呼吸のお話は、興味深いです。
この詩も、長く吐く息にのせて生まれてきたように感じます。
何事をするにも、やっぱり呼吸って大事なんだな~・・!
Commented by hannah5 at 2007-07-16 02:55
◆ポピーの詩さん、こんばんは。
私はそんなに丈の高い草むらを歩いたことがないので、この詩は想像だけで読んだのですが、そうなんですか、それはすごいですね。
でも、共感していただけて嬉しく思いました。

野村喜和夫さんの朗読は何度か聴いているのですが、城戸さんはまだ聴いたことがないですね。
今度、会ったら、そんな機会があるのか聞いてみますね。
(って、城戸さんの前に出てもあがらなければ、の話ですが。私、あがってしまうんですよね。)

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