私の好きな詩・言葉(111)『討議 詩の現在』より (野村喜和夫、城戸朱理)   


「まえがき」

 『討議戦後詩』 にひきつづき、われわれはここに 『討議 詩の現在』 を公にする。とはいっても、前者から八年の歳月が流れている。
 この間、二十一世紀へと時代の気分は改まり、そしてなによりもあの9・11同時多発テロを境に、いわゆるグローバリゼーションとその抵抗というあらたな世界史的構図がいよいよ鮮明になっていった。いま、戦争は、みえないかたちでいたるところに存在している。加えて日本では、バブル崩壊以来の経済の停滞を背景に、時代の閉塞がかつてないほどのざらついた空気をもたらしているように思える。インターネットの普及によるメディア環境の変化も見逃せないところだ。
 詩をめぐる状況もまた不変ではない。戦後詩的な闘争の詩学の呪縛から解放されたベテラン詩人から、その闘争の詩学自体を知らない若手詩人まで、それなりに個性的な作品製作を競っているさまは、社会一般の劣化と抗うように、さながら百花斉放といえなくもない。だが、実のところそれは、苛烈な市場原理と進行一途の大衆社会状況からはじきだされた詩が、みずから囲い込んだ貧しい安全地帯のなかに、いくつもの小さなモナドの窓をひらいてみせているという程度のものにすぎないのかもしれないのだ。
 こうしたさなかに、『討議 詩の現在』 は企画された。われわれの認識では、戦後詩的なものは遅くとも一九八〇年代にはその役割を終えている。したがって本書では、それ以降の詩の展開を主たる対象とするが、当然のことながら、『討議戦後詩』 のような通事的方法、時系列に沿って詩人をならべ、ひとりひとり検討してゆくという方法はとらなかった。問題となっているのは、地層というよりは地勢である。そこでわれわれは幾分かリラックスしてアンテナを伸ばし、まず、およそ思いつくかぎりの今日的テーマをランダムにえらび出すことから仕事を始めた。そうしてつぎには、それらをふたつひと組のゆるやかな対もしくは双概念風に結合して一ダースあまりの章を立て、しかるのち、複数の詩人の名前たそこに寄り集うようにしたのである。
 いうところのテーマ主義だ。にしても、しかじかのテーマが複数の詩人たちを横断する、あるいは、しかじかの詩人が複数のテーマを横断する。そうしたことが、本書ではひんぱんに起こる。その結果として、「詩の現在」の交通の様相がまがりなりにも――複雑さは複雑さのままに、多様さは多様さのままに――描き出されているならば、われわれの所期の目的は達せられたということになる。もしかしたらそれは、件の小さなモナドの窓を相互に向き合わせ、いや、ひょっとしたらひょっとして、窓そのものをうち砕くことになるかもしれない。各章のゲストに、詩以外のさまざまなジャンル・分野で活躍する人を少なからず呼んだのも、そうした願いをこめてのことであった。
 では、読者もどうか、どこといって決まった入口もなければ出口もない本書を縦横に行き来して、「詩の現在」の交通を満喫されますように――。
                                             (野村喜和夫)



「あとがき」

 
 「現代詩」はよく「難解」だと言われる。そのことが、むしろ価値のあることのように考えられた時代もあったし、逆にそれゆえに憎まれたり、敬遠されたりもした。そして、いまだに難解なものと思われているかも知れない。
 しかし、自分では何も考えることなく、そういった通年を信じ込んでいる人が、もし虚心に今日の詩を読む機会があれば、逆に、その分かりやすさに驚くことになるだろう。近年の現代詩は平明で明快な抒情詩がそのあらかたを占めており、年配の詩人によって賞揚されるのも、もっぱらそういった種類の詩に限られている。その意味では、今は「現代詩」は平明で簡単なものになりつつあると言ってもいい。 
 もちろん、一篇の詩が平明であるか、難解であるかは、それだけでは詩の意義や価値を何ら語るものではない。平明で深遠な詩もあれば、難解で明晰な詩もあるように、決して、どちらかが正しいわけではなく、問われるべきは、一篇の詩が書かれるときに選ばれた方法と、その達成ということに尽きる。しかし、今日の状況は、やはり後退と言うしかないだろう。平明な詩への傾斜、それは結論から言うならば、メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと、語るべき主題を失って個人的な感慨を語る抒情詩に解体されていったものだろうし、そういった種類の詩が語りうるのは、いつの時代であっても、「わたし」という主体と世界の関係性――具体的には、世界なり社会なりに対する主体の位置の確認と、そこから生じる感懐や詠嘆なのであって、主体が置かれた状況によっては感動的な作品も生まれることがあるとはいえ、あらかたは十九世紀的なロマン主義が希釈されたようなものにほかならない。そして、そのような詩においては世界そのもの、主体そのもの、言葉そのもの、そして、詩そのものは、決して問われることはない。
 逆説的な話ではあるが、このような状況は、逆に詩を「難解」なものにする。十九世紀なかばまで、詩は民族と言語に根ざした固有の形式を持っていた。その形式を捨てるところから始まったのが今日の自由詩であって、形式という保証がないだけに、それは必ず「詩とは何か」という問いを孕み、その回答として書かれるものになる。そうでなかったら、どこに詩と散文の境地を引くことができるというのか?
 したがって、「詩とは何か」という自問を欠いた詩が氾濫すると、詩という概念は次第に曖昧なものになっていく。平明な抒情詩が支配的になるにつれて、詩とは何かは分かりづらくなっていくわけであって、それが詩をめぐる今日的状況のひとつの側面であると言ってよい。このような転換期にあって、どのようにして詩は可能になるのか?それを検討したのが、本書であり、内容的には「戦後詩」から今日へのいくつもの動機を探るものになっている。これらの動線のうち、どれが尽き、どれが
本来へと慎張していくのか、それを選ぶのは、余人ではない。
                                              (城戸朱理)

(『討議 詩の現在』 野村喜和夫。城戸朱理)




ひと言


今回は言葉。本書は野村喜和夫氏と城戸朱理氏が毎回違うゲストを招き、テーマごとに討議し、2年間にわたって行った連続討議を本にまとめたものである。ここでご紹介しているのは本書の「まえがき」(野村喜和夫)と「あとがき」(城戸朱理)に書かれているものだ。ともすれば迷路に入り込む感のある現代詩だが、詩を学ぶ者にとってこういう本が出たことは大変ありがたい。

最近、少し詩作のスピードが落ちている。何をおいても言葉が溢れ出ていた2、3年前に比べると今はゆっくりと言葉が出てくるからである。そして、書くこともさることながら、本を読んで吸収したい。詩人たちやその作品についてまだそれほど知っているわけではないので、ゲストを交えての野村喜和夫氏と城戸朱理氏の話は大変勉強になるし、面白い。
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by hannah5 | 2007-09-09 23:54 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

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