日中現代詩シンポジウム その3   


12月2日(日)午後2時より学士会館で行われた公開シンポジウムには、200人ほどの視聴者が集まった。参加詩人は中国からは于堅、翟永明、欧陽江河、楊煉、駱英、陳東東、西川(シー・チュアヌ)、日本からは高橋睦郎、北川透、大岡信、吉増剛造、佐々木幹郎、平田俊子、水無田気流、野村喜和夫が出席した。(敬称略)


第1部は「伝統/モダニズム」と「私/他者」について、第2部は「アジア/ヨーロッパ」と「社会/読者」について。

第1部

「伝統/モダニズム」

水無田気流
筆名の水無田気流は永久に変わり続けることが真実という意味。
自分はロスト・ジェネレーションと言われる世代で、親の世代より決して豊かにはなれない。
ブロイラーのように大量生産の中で育ってきたので、自分たちの生を自分のものとして受け入れられない。
ポストモダンに浸って生きている。
オリジナリティが不在した世代だ。

駱英(ルオ・イン)
副題の「いま詩に何ができるか」は、40年前にも議論しており、また議論することに失望している。
日本の現代詩人たちから詩のテクニックについて聞かれることが多いが、自分は詩のテクニックより、社会的な背景などの詩の内部について討論したい。
中国で起こっているのは社会における苦痛であり、中国の詩人は社会に向けて詩を書いている。
それに比べて日本の詩人たちは個人の内側に関心があり、内向的だ。

― ここで、司会の北川透さんより、注釈。今回のシンポジウムに参加した中国詩人のほとんどが1950年代生まれで、文化大革命時代に少年・少女時代を送った人たちだ。

楊煉
時間がない苦痛を味わっている。
伝統とは個人個人の詩を書くこと。
歴史が個人を形作っている。


「私/他者」

于堅
伝統の中の詩人、李白と杜甫は死んだ詩人ではない。今も生きている。
死亡とは現代社会の概念だ。中国の伝統の中には存在しない。
死亡とはひとつの形、変化した形のことを言う。
30年前に父親が買ってくれた日本製のテープレコーダーは、生まれて初めて出会った他者である。
日本を思う時、思い出すのはソニーやホンダではなく、松尾芭蕉や川端康成だ。
日本のモダニズムは完熟しているが、中国は今直面している。
自分は以前はモダニズムを望んだが、今は懐疑的だ。
文化大革命の時は幸せな内部があったが、今は豊かな物質の中で心のうちが希薄な人が多い。

高橋睦郎
死者の方が生者より、伝統の方が現代より、モダニズムを動かしていることがある。

翟永明
「私と他者」は文学的というより哲学的で、自分にはまだよくわからない。
「私」(自我)は現在のものと言われているが、古代の中国人も考えていた。しかし、西洋的な理論は当てはまらない。
東洋の「私」は禅の悟りに近く、曖昧さがある。
自我の脱却は禅の思想である。
自我の追求は無我、自由になるということ。

谷川俊太郎(欠席したため、北川透さんが代弁)
「私」は言語から生まれた「私」であり、母から生まれた「私」である。
「私」が現代においてわかりやすく響くのは、言語論の時代が長かったからだ。
ソシュールからミッシェル・フーコーまでの問題意識が背景にある。
見えないシステムが私を語らせている。

北川透
日本において、サブカルチャーがメインのカルチャーを圧倒している。
サブカルチャーは軽薄で質の低い文化ではない。世界に影響を与えている。
詩の豊かな可能性の中に言葉遊びの可能性がある。
欧米に支配された文化により、中国の詩が危機にさらされている。
日中の相互理解が必要であり、日中間での問題提起が必要である。


第2部

「アジア/ヨーロッパ」

大岡信
自分は1931年生まれで、日本が中国と複雑な関係にあった時代に育った。
フランス文学に憧れたが、大学受験で仏文科を落ちて日文科へ行った。
日文科へ行ったおかげで、日本の古典をたくさん読んだ。
もっとも古い日本の文学である万葉集は中国から影響を受けており、それによって中国文学を読むようになった。

陳東東(チェン・ドンドン)
中国の現代詩は中国伝統より西洋文化から取り入れることが多い。
自分は現在、上海に住んでいるが、上海は西洋化されている。
しかし、さい湖のまわりは今も昔のままの風景が残っていて、そこへ行くと心が癒される。
中国の都市は西洋化されている。
今一番むずかしいのは、現代詩にさい湖を取り入れることだ。

欧陽江河
アジア/ヨーロッパにもっとも影響を与える文化は古代の文化だ。
コンピューターなど、時代の流れに逆らえないが、詩人としてのアイデンティティを確立すべきだと思う。
今、詩人にとっての課題は、詩人としてのアイデンティティを確立するということだ。


「社会/読者」

平田俊子
詩を書く時は詩を神さまに捧げる気持ちで書いている。
自分の中で自分と神さまが混在している。
詩を書く時は見えない力を借りて書く。
詩を書く時は読者を意識せずに書く。

佐々木幹郎
今回のシンポジウムを通じて、日中の詩人の共通点を発見した。
・ 中国詩人の課題は権力とどう立ち向かうかだが、言葉に対する感触は日本も中国も同じだ。
・ 中国で詩人とは何かという確認を常にしている。
・ 子どもが泣くと「泣くな。詩人にしてしまうぞ」と言って叱る。
・ 詩人が社会と接触する強烈さが中国の詩人にはある。
・ 日本の詩人には社会と接触する強烈さはなく、曖昧である。
・ 詩人はどこにいるか?-日本、中国において詩人の顔は見えにくい。

翟永明
詩は魂を建て上げるために書くべきだ。
詩によって魂を救う自覚・意識をもつべきだ。
詩人はどんな詩でもスローガンや宣言の言葉ではなく、詩の言葉で書くべきだ。


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他にも大岡信さんや高橋睦郎さんや佐々木幹郎さんがかなり長い意見を述べられていた。

どの意見も、私にとっては非常に参考になる意見だった。けれど、この中で最後に述べられた翟永明さんの意見が私が詩を書く時の意識にもっとも近いものを感じた。翟永明さんの第一詩集 『女性』 は野村喜和夫さんによると、「中国において衝撃的な詩集で、新しい女性の詩」なのだそうだ。そのせいかどうかわからないが、シンポジウムで述べられている翟永明さんの意見に少なからず関心を持った。シンポジウムが終わってから翟永明さんに日本語訳の詩集は出ているか聞いてみたが、残念ながらまだ邦訳は出ていないとのことだった。(「現代詩手帖を読んでください」と言われた 笑)(英語にも訳された詩集があるので、そちらから読めるかもしれない。)

会場の入口で思潮社の本や詩誌を販売していたが、中国詩人の詩集は数えるほどしかなく、それが今回残念な点だった。これだけの中国詩人たちを呼んでシンポジウムを開いたのだから(しかもこのシンポジウムにはかなり著名な国文学者や詩人たちが参加されていた)、せめて中国詩人の詩集をもっと揃えてほしかったと思う。

最後に。1部と2部の間に10分ほど休憩があり、トイレに行った時、私の前に清楚できれいなベージュのセーターを着た女性が身づくろいをされていた。2部が始まってからわかったことだが、その女性は平田俊子さんだった。きれいなピンクのハンカチが印象的だった。
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by hannah5 | 2007-12-05 23:47 | 詩のイベント | Comments(0)

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