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私の好きな詩・言葉(118) 「冬の揺籃」 (新井 豊美)   


「冬の揺籃」


ひとつのサイクルが終わって木は身軽になる
そんなふうに変われぬものか
妄想をあおりたてる原色の
千の身振りに惑わされることも少なくなって
冬が来た 冬が来た ひさしぶりに
さえぎる影のない歩道のあかるさ
ここから何かを始めるには
今はほんとうによい季節なのだ 挨拶がわりに
いつも一拍おくれて牧歌的な歌をうたってくれる
調子はずれのこの公孫樹の木も古い装束を脱ぎ捨て
いつのまにか大昔からの原型的な
細身の裸身に戻っている寒空の下
黙って立っている太い幹に手をふれると

 コノ骨ガアルカギリダイジョウブ
 歌ウコトガデキレバダイジョウブ

見上げれば寒気の
研ぎすまされた刃で青々と剃り上げられ
地平線の上に組み上げられた生命の体系図のような
オーイ その頂きからは何が見える?
灰色ブロック積み重ねた慣習の空
ゼラチン状に凝った街並みをこえてひろがってゆく灰の流域
多摩川を渡ったその先は茫漠と霞んで見えないが
たまには親しいものたちに会いに
どうしても水辺までゆきたくなる日もあって

そんな日はもうだいぶくたびれて
こころがギシギシきしみ
体中の間接が油切れして
弱くなっているのだ
涙もろいのは生まれつきだがこの間も
ながく会わなかった友人の画家の壮絶な最期を
そのひとの妻から聞かされて
そのひとのかなしみがひどくこたえて

もう若くないきみは難しいところに来ている
来ているんだぞと口やかましいヒヨドリが
黒い光る目でもの言うと風花が散りはじめ
せっかく話しかけられても
喋りたいこともなくなった冬は水面をガラスのように
 はりつめてただしずかに光っている
その先のあたらしい光のような幻のような
見えないものを見るためには大気が澄んで
人影もまばらな今はほんとうによい季節
こんな日の頭上は
カーンと晴れたとくべつの夜空で
見上げれば冬の大三角形
水晶宮の中天にかかる深い揺籃からは木の星の子らが
青闇に旅立ってゆくのが見えるはず



「音楽」


  ひとつの影をねむらせて木は燃えている
  鳩の群れが舞いおりる広場で
  アカシアの並木がいっせいに炎上する


八月の恋人よ
観念に肉体を与えるためには純粋な熱
とうめいな大気の熱がもっと必要だ
燃える道
燃える家並
燃える樹木
燃える雲
氾濫する河口
藻の匂いがする髪
鼓動を打つあなたの打楽器
単純で力強いそのリズムを盗むための
燃えたつ火を奪うための

ひとつの地名
小さな駅
夏のはずれの水色の
そこを出てゆき戻ってくることができる
なつかしい肉体
水を湛えた時間のゆるやかな曲線に沿っていくども触れてゆく水辺の草
素焼きの甕のような
そのすべらかなうちがわのような
あなたの満ち足りたほの暗い空洞
生きた波動を言葉に換えるためのもっと過剰ななにか
名づけられないものが必要なのだ

紙の上の文字のあふれ
文字の疲れ
じょうぜつな陶酔
ではなく その下にひろがるかがやく闇
沈黙する母胎のような
生成渦動する星雲
官能の音楽のような

そのときわたしは点滅する光
成熟した時のかけら
もっとも鋭敏な生命
黄金の管からなる実った麦のようなものになる
穂を交わし
風のなかで縺れあう
わたしたちが真昼の眼をこえていっせいに
旋律の方角に靡くとき
わたしたちがさらにとおくへ放たれるとき

水道の栓が開かれる
甘酸っぱく咽喉を通ってみぞおちにあふれるもの
ふいに立ち上がる水音を背後からあびて
わたしたちは痩せた管のようなものになる
ストローで水の紐を作ったり
感情と感情を沈黙のほそい糸で繋いだり
筴竹桃の花の闇に隠れて縺れあったり

空が傾く
星雲が動く
あなたが小麦色のしなやかな背中を渡す
八月の明るい空虚

恋人よ
あなたを絡めとろうとわたしはいくども網を投げるのだが
あなたはすばやく網目から逃げて
捕えられない


(新井豊美詩集 『切断と接続』 より)






ひと言


粟津則雄さんの言葉を引用させていただく。「新井さんは、絵も試みているというだけあって、対象の具体的な細部に対する精密なまなざしが感じられるが、いま一方で、観念を、抽象的に理解するのではなくほとんど官能的に感じ取るふしぎな感性をそなえているようだ。」(「栞 夜のくだもの」より)

そう言えば、新井豊美さんの詩は対象物(あるいはモデル)があって、それを見ながら丁寧に絵を描いている感じがする。一語ずつのスピードが遅く、書いては立ち止まり、立ち止まって書くという印象がある。ゆっくりと読んでいると、言葉がふしぎなプリズムを発して、プリズムの中に幾層もの美しい言葉が現れてくる。



新井 豊美(あらい とよみ)

1935年広島県尾道市生まれ。銅板画製作から詩に転じる。1970年頃から詩と評論を発表し、本格的に詩を書き始めた。詩集『波動』(1978)、『河口まで』(1982、地球賞)、『いすろまにあ』(1984)、『夜のくだもの』(1992、高見順賞)、『現代詩文庫・新井豊美詩集』(1994)、『切断と接続』(2001)、評論『苦界浄土の世界』(1986)、『〔女性詩〕事情』(1994)、『詩の森文庫・女性詩再考』(2007)、詩文集『シチリア幻想行』(2006)、他著書多数。                    (「現代詩手帖」11月号より)

by hannah5 | 2008-01-09 23:45 | 私の好きな詩・言葉

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