私の好きな詩・言葉(119) 「夜の船」 (新井 豊美)   


「夜の船」


  『ソヴォルヴィヤルの街には人影が無い。そして窓窓には、紙のブラインドが引き下ろ
  されている。』
 夜の通路。風の路地。吹き過ぎる物から比喩への最初の曲がり角。昼の翼が汚れた光を糞のように投げ捨てて発っていったその街は、弛緩した虹の死の色を纏い、身動きもせずによこたわっている。ゆうぐれのくすんだ幕を引き裂いて、さらに内部へ内部へと開かれてゆく門。その来るべき漆黒の上で、夜の金の掌が闇の奥に開花する。夢のとめどない放恣と氾濫を受け止めるために、掌は花々の蕚に似せて五本のしなやかな指を開かねばならない。
  ・・・・・・・・・あれから・・・・・・夜のガードを時刻表どおり列車が通過してゆき・・・・・・
  音量が重々しく連なってとおりすぎていったのちのしじまに寺院の高い石段の上から
  たえまなく雨が降りつづけていました・・・・・・・・・
 首筋を撫でてすぎるうすらさむい生体の感触。眠りの手前で、青孔雀たちの広場には磨かれた蛇紋石が敷きつめられ飾りのついた雅歌の尾羽が放たれている。水を噴く木々の列。異界の門を指す黒い人体の首に、夜の風はどんな痕跡も残さず、旋回しながらその長い指をやわらかく巻きつけてくる。

      *

  『人々は眠っているのだろうか。真夜中過ぎの時刻だ。ある家からは声が聞え、他の家
  からは食事時のざわめきが漏れてくる。』
 信じられたもののみが放つ透明な光。いくつか、濃い紫に熟れてゆく一房の記憶。その上を覆っているあの美しい植物性の掌。なにかひとつの貴い場面に出会うように、その手に出会うことをつよく願っていたのではなかったか。閉じられた窓、閉じられた扉、家々の壁に捺印されている死者たちの掌紋。伏せられた夜の冷たい掌の下から石の階を螺旋に辿って、降りてゆくその地下の部屋では人肌がかすかに触れ合い、眼の水が渦巻いている。
  ・・・・・・・・・見えない流れの底では水は渦巻いているはずです。静かに流れているよう
  に見えても、川は、底ではげしく渦巻いていて・・・・・・・・・、そして水面には青い蚊柱の
  絶え間ない唸り。あなたにはまだ、河口に渦巻いていたあの夏の渦のことを話してはい
  ませんでした・・・・・・・・・
 囁き。笑い声。地下室から溢れ出て路地を蛇行してゆくそれら水滴に似たひそやかな声は、雨にぬれた足音をひとつひとつ、聞き取れぬ遠さまで運び去ってゆき、人を生まれる前の闇につれ戻す。
  ・・・・・・・・・渦の中は見開かれた真っ黒な瞳だけでした。夜は、去ってゆくものからの愛
  として、そこに残されるのでした・・・・・・・・・

      *

 音もなく降りてくる夜の物語。時の鏡の、みがかれた黒い扉の上には黄昏の水銀のしずかな滴がしたたり、逆光をくぐって老いたひとは白髪を闇に沈める。波浪の夜へ、旅立つ人よ。その扉は最初の、そしてそこはわたしたちが別れの時を過ごす最後の場所で、暮れてゆく鏡を割ってわたしたちはもうたがいに触れ合うことも、眼の水に哀しみを湛えることもなく、ただ悼みあうこころだけが初めてというほど、たがいのこころとこころの距離をちぢめ、あたたかい灯の色が横顔にしみいるふしぎな親和の時がきて、そしてようやく、そう、ようやく!わたしたちにとって、ほんとうの父母はほかならぬこの“夜”であり、ひとは記憶という肉体の昼ではなく、忘却というはるかな夜の一房に属していることに、知覚ではなく、闇に実る素裸の存在の痛覚に属するものだということに気付くのだ。

      *

  『ここでもまたこれらの航海者たちは急速を見出すことなく、再び、地獄の業火にも
  似て静まることを知らぬ永遠の波浪へ向って、船出するのであろうか。』
 死者の、脛のほそさに添えて削られた白い木のちいさな椅子。永遠の揺籠をかねて弓型にカーヴさせた船底で床を漕ぐ椅子。編み込まれた複雑な雲の形を背負いどこまでもひろい地平と空を憧れる籐の椅子。与えられた短い安息のためにその長椅子は毛のない一ぴきの獣を装って蹲っていた。四本足、机、書棚、洋箪笥の、ひとつひとつの鍵穴の繊細なまるい闇が精巧な銀細工の紋章で隠された無数の抽斗。旧い家具やガラクタの類を積み上げ築きあげて彼らの耳なれぬウル語のささやきを綴ってゆけば、まさに一艘のおおきな船の物語となるだろう。物自身の語る“物語”。物語を閉じ込め、塗り込めている家具たちのくぼみというくぼみ、手擦れの、傷の、物という物の沈黙と倦怠をひとつにまとめて、ガラスの箱の中、虚の数を打つ時の大時計。

      * 

  『この地のかつての住民について、彼らの船を眺めることで多くを知ろうとするのなら
  ば少なくとも漕ぐことはできなければならないだろう。』
そしてひと夜の闇へ漕ぎ出す人々の夢の中で、家具たちは長いあいだ密かに企てていたのではなかったか。出発のための白いおおきな帆をしたてて人々を乗せ、灯台も標識もない夜の、そのおそろしい果てしなさに向け、気紛れな風にまかせて出帆してゆくことを。漕ぐことを知らぬものたちの、ながい航海の先の、地図にないおおきな水銀色の凪の海へ、みずからの船ともどもガラクタの類として、捨てにゆくことを。

※『 』の中の言葉は、菅谷規矩雄 『ゲニウス地図』、W・ベンヤミン 『都市の肖像』 から引用。


(新井豊美詩集 『夜のくだもの』 より)




ひと言 


夜は豊かで深く、漆黒のビロードの物語が開かれている。昼間には光に遮られて見えなかったそれが、夜になると艶かしく花開き、生き生きとした表情でよみがえる。夜はスペードの女王の香りだ。


『夜のくだもの』 は1992年、高見順賞を受賞した作品。「夜の船」は新井豊美さんの知性と情感が美しく融合して、深い色調を湛えた作品だと思う。



新井 豊美 (あらい とよみ)

1935年広島県尾道市生まれ。銅板画製作から詩に転じる。1970年頃から詩と評論を発表し、本格的に詩を書き始めた。詩集『波動』(1978)、『河口まで』(1982、地球賞)、『いすろまにあ』 (1984)、『夜のくだもの』 (1992、高見順賞)、『現代詩文庫・新井豊美詩集』 (1994)、『切断と接続』 (2001)、評論 『苦界浄土の世界』(1986)、『〔女性詩〕事情』(1994)、『詩の森文庫・女性詩再考』(2007)、詩文集 『シチリア幻想行』 (2006)、他著書多数。(「現代詩手帖」11月号より)
[PR]

by hannah5 | 2008-01-22 23:26 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

<< ぷちりともぎ取る 感受する >>