言葉を拾う ― 日中現代詩シンポジウムから その2   


「私/他者」

「ジャック・プレヴェールというフランスの詩人がいますけれども・・・・・プレヴェールという詩人の場合は、フィクションとも言えるんだけれども、ぼくの友人はそれは彼の巨大な私性であると言いました。ひじょうに大きな私という器があって、彼はそれで書いているのだという。いろんな他者を受け入れるだけの大きさがあるということですね。表層の私がエゴであるとすると、深層の私はセルフ、自己のほうである。大きな私というよりは、やはり深層の私であって、そこでは言語はまだ生まれていないかもしれない。そこは混沌、カオスなんです。そのなかに意味可能体というものがあると言っている学者がいます。だけど、詩が生まれる源はそこなんです。・・・・詩は潜在意識、まだ言葉にならないところから生まれてきます。それは表層の自我がよっぽどうまくコントロールしないと、普通のひとにはわけがわからなくなる言葉が多いんですよ。日本で現代詩がわかりにくくて、読者を失っている理由はそこにあります。」(谷川俊太郎)

「自我、つまり私があるということを強調することは、それを演じることになる。自我というものは、暗い闇のなかに存在していて、わかるわけがない。それは、自分自身が意識しないことです。自我が存在するということがあるとしても、自分から意識することではなく、もしそういうことがあるとしたら他者から見た自分のことだろうと思います。もし自我を分析してしまったら、それは他者の目から自分を演じることになってしまいます。自我とは、闇であり、無であると思います。」(于堅)

「それ(自我)は潜在意識と同じじゃない?潜在意識は自我じゃないですよ。集合的無意識だと言っているんです。そこには、すべての人間の無意識とつながっている。だからほとんど自我の視点から見たら自我はないと言ってもいい。深層の潜在意識では、あらゆる人間の無意識とつながっているのではないかというのが、集合的無意識の考え方です。」(谷川俊太郎)

「日本の詩人が、詩人を天才であると考えないで、言語の経験と知識によって詩を書くという考え方は、資本主義の国の考え方のような気がします。そういう意味で、中国の詩人と考え方が違うように思います。中国では、やはり一番大切なのは才能だし、二番目に経験であると考えています。経験が積み重なればいい詩が書けるかもしれない。それである程度まではいけるし、エンジニアにも画家にも大学教授にもなれるけれども、それは詩人ではない。詩人は中国では、古代から巫女、シャーマンであると考えられています。」(于堅)

「私は、もともとは物理の専門でしたから経験とか知識によってエンジニアになることもできたわけですが、どうしてそれをやめて詩を書くことになったかというと、自分のことはそういうふうに言いたくないけれども、やはり詩を書く才能があったからかもしれません。そういう意味では才能による部分はあると思っています。ただ、天才は一時的なエネルギーだと思います。才能だけでは長続きしない。持続させるのは経験なのではないかと思います。」(翟永明)

「中国には宗教がありません。仏教が中国に入っても、儒教と関係しているんです。中国が何を通して何をもって信念とつながるか、それは書くことによってです。文章は「為天地立心」と言って、心、信念は獣と区別するものです。書くことによって、魂の深いところにたどりつくことができます。・・・・・さきほどのシャーマンが天地の力を呼ぶためのものでした。それは、そのものによって喜びを獲得するもので、遊びではありません。だからこそ、文章を書くひと、詩人はその力を持っていますので、政府に一番厳しくされるのです。影響力を持っているし、天地を呼ぶ力、神秘的な力を持っていると考えられていたからです。古代から現在まで、才能は天に与えられて、必ず使えるものになるという中国の言葉があります(「天生我才必有用」)。」(于堅)

「中国は歴史的に、統治者、つまり権力者は詩人でもあるのです。中国の知識人で詩を書かないということはありえないことです。」(于堅)


「社会/読者」

「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚・・・・・と五感があるでしょう。五感のなかで、人類に障害として成立しないのは「触覚障害」なんです。これが障害になっているひとは誰もいない。なぜかというと「触れる」という感覚を失ったとき、人類は死んでいるからなんです。生きている人間は目が見えなくても、耳が聴こえなくても、手足が不自由でも、知的な障害や精神障害があっても、触覚は失っていない。だから、生きることができる。」(佐々木幹郎)

「「触れる」という感覚はあまりにも当たり前すぎて、わたしたちはこのことの大事さを見失いがちです。しかし、触れる感覚が失せたとき人類ではなくなるということは、言葉についての大切なことを教えてくれます。ひとを愛するとき、まず言葉でお互いを触り、言葉にならない場合は、お互いの身体を無言で触りあいます。・・・このことから言うと、詩は言葉を通して他人を触ることではないでしょうか。モノを触る。言葉が声となったときは、声でひとを触る。詩の朗読とは究極的にそういうことだとぼくは思っています。」(佐々木幹朗)

「結局、書くことの怖さを詩っている人間でないとほんとうの読者を獲得できないと思う。たとえば、平田俊子の持っている毒素、書くという毒に感応した読者が平田俊子の読者になる。ぼくはそれが書き手と読者の関係だと思います。インターネットでの書き込みと匿名による批評が増えていますが、そこには毒そのものが成立しない構造がある。読者の数が増えているように見えるけれども、ほんとうの読者はいないんじゃないかと思います。」(佐々木幹郎)

(「精神的危機感は中国の政治的な状況と関わりがありますか」という平田俊子の質問に答えて。)「政治や権力による危機ではなく、自分自身の精神的危機です。外部からの危機であったとしても、それは自分の危機に転換した場合です。私はいままで外来的危機によって、私を圧倒するような精神的危機を感じたことは一回もありません。ただ自分の内面から出てくる危機感は回避することはできません。そういうときは自分の無力さ、弱さを痛感します。そのときに詩の言葉を通して、詩を表現するんです。」(唐暁渡)

「ぼくは去年NHKの番組で、母校の小学生の子どもたちに詩を教えに行ったことがあります。二日間にわたって詩で遊ぶ授業をやりました。そのときは、現在書いている詩を朗読して、同じテーマで詩を書いてもらうということをやったんですね。子どもたちの前で詩を朗読したら、担任の先生が寄ってきて、「むずかしすぎて、こどもたちはわからない」と言う。でも、ぼくは絶対わかってくれると、子どもたちの顔と反応をみて思ったんです。そしたらその通りに、舌を巻くようなものすごくいい詩が返ってきました。詩を書いている大人が、自分がいまやっている最高レベルの仕事を、小学生の六年生にそのまま見せたら、確実に通じる。けれど大人たちは子どもたちにはむずかしいと思って、子ども用のレベルに低めて翻訳してしまう。それは現在の詩の教育の大きな間違いだというふうに思います。」(佐々木幹朗)

「さっき西川さんが、教科書に載っている詩は読み手を傷つけないとおっしゃいましたが・・・いい詩を読んだときは傷つきます。私は詩を読んで傷つきたい。自分を傷つけるような詩を読みたい。私は詩を書くとき、自分を傷つけながら書いています。詩は、傷にかかわっていると思うんです。自分を傷つけたり、他人を傷つけたりするのが詩ではないでしょうか。」(平田俊子)

「ぼくの好きなアイルランドの女流詩人、ヌーラ・ニー・ゴーノルの詩のなかに、「詩人の僕ら 皮膚を壁紙に使う」とあって、詩は自分の皮膚に書くものなんですね。」(佐々木幹朗)


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文学のジャンルの中で、詩は小さい存在かもしれません。けれど、その小さい存在、窓を通して、いろいろなものが見えてきます。私は今回、このシンポジウムに出席して、詩人たちのひとつひとつの言葉から詩を書くことのエネルギーと大きさと深さをもらいました。今年はシンポジウムに参加された中国人の詩人たちの詩集(日本語訳)が次々と刊行されるそうです。それらが読める日を楽しみにしています。


日中現代詩シンポジウム その3
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by hannah5 | 2008-02-08 15:59 | 詩のイベント | Comments(0)

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