カテゴリ:私の好きな詩・言葉( 174 )   

私の好きな詩・言葉(143) 「男と女」 (相生 葉留実)   


男と女


男は火で
女は水なのです

それで
男は一時的にも潤いたいと思って
女の中の甕の水に
手を浸すのです

でもそんなことだけでは
自分の渇きを取り除くことは
できません

男は歩いていくのです
海へ向って歩くのです
靴も砂ぼこりでまっしろです
熱のために靴紐が切れると
裸足になって歩くのです
蹠まで灼かれながら

やっと海へたどり着いたとき
そこにはもはや水はなく
砂浜だけが
以前は水平線だったところまで
つづいているのです

女は
どこも
濡れてはいないのに
乾きたいと悶えているのです
その褐色の肌をあらわにして

女という心で生きている
この国のものたちは
水の中に昔から泳ぎ住んでいたので
足も腰も濡れているわけではないのです

女が夏の海で
はじめて男と呼ばれている生きものを見たとき
その男は
耳のつけ根から顳顬(こめかみ)を通り
髪にむかって
炎を立ちのぼらせていたのでした
女は《いつからこの人はこうやって薪を燃やしているのだろう
 昔からそうなのかしら》と思ってみたのでした。
女は水の中から出てきて
「その薪を私にください。私はこんなに濡れているのですから」
と、声に出していったのです。
「甕には水があふれています」
とも言って誘ってしまったのです。

男は今にも燃え出しそうな木片を集めて
一隻の船を造り
女そのものといいたげな
海の上へ
浮かべたのでした
そして 船の上で
女の着衣を脱がせはじめるのです

髪から雫が垂れるのを見て
女はやはり
自分の体が濡れていることを知るのです
それで男に向っていくども
私の体を乾かしてください
といおうかいわないでおこうかと、
何時間も思い迷って 仕方なく
男のシャツを一日がかりでやっと一枚
洗濯するのです。


(相生葉留実詩集 『舟にのる』 より)

ひと言
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by hannah5 | 2010-08-20 18:35 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(2)

私の好きな詩・言葉(142) 「亡命者」 (田 原)   


亡命者


祖国の風は
あなたの心の中のともしびを吹き消したのか
それとも異郷の太陽は
あなたが遠出することを誘惑したのか

体の向きを変えたことは裏切る行為ではないが
しかし 体の向きを変えた瞬間
あなたといっしょに成長して来た地平線は
やはりあなたの足もとから
賢明にもがいて消え去る

遠方はあなたのすべての頭陀袋だ
それを背負って
あなたの母語を背負っているかのように
あなたを聞き慣れない鳥の囀りと光とに
馴染ませる

海は永遠に大目に見る
すべての船を動かす
空は永遠に無慈悲で
いかなる人の魂を留めてやらない

黒雲より重いのは
誰の気持ちでしょう?
闇夜より暗黒なのは
どんな人の眼でしょう?

流木のように 亡命者は
自分の落ち着き先を断定できない
彼の両脚は
運命にしっかり握り締める太鼓のバチだ
いつでもどこでも
大地この疲れた太鼓を鳴らしてたたく
彼岸より遥か遠いのは真理だ
追放より長々としたのは侮辱だ

網膜にうつされた風景は支離滅裂
祖国は依然として彼の夢に見た古里
郷愁は埠頭から始まり
母語は死ぬまで続く

(田原詩集『石の記憶』より)

もう一篇
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by hannah5 | 2010-05-16 20:04 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(141) 「準備」 (奥田春美)   


準備


彼女の準備が始まった
先祖代々の古い墓石のよこに御影石の墓誌をたてた
表側がいっばいになると裏側に刻むといいよ
ほら、さわるとすべすべ気持ちいいよ
わたしたちは一応さわってみた
ぼくはこのあたりかなというものがいた
裏側は百年以上あとの死者だなというものがいた
みんな少しの間ぼんやり立っていた
次に彼女がしたことは
金箔がとれてほとんど暗闇の仏壇の修理だった
仏具屋からはそれはきんきらきんになってもどってきた
五十年は光りつづけるよ
ほら、極楽浄土ぽくってよいだろう
わたしたちはかわるがわるのぞきこんだ
みんなの顔がかわるがわる金色に光った
最後に彼女がしたのは
たべるねむるたびにごくらくごくらくということだった
それをきくとわたしたちはつい彼女にさわりたくなった
ごくらくにさわったよ
ごくらくはわらったよ

わたしたちの準備もできた


(奥田春美詩集『かめれおんの時間』

ひと言
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by hannah5 | 2010-03-29 17:18 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(140) 「不在の息子」 (永井ますみ)   


不在の息子


息子は、「じゃあ」と言っただけで普段のスニーカーのまま出て行ってしまった。私は「どこへ」と言いそうになったけど、堪えた。「おかんはいつも、どこへってばっかり、オレを監視するんか」と鋭い視線が帰ってくるだけと分かっていたから。

「いっつもゲームばっかり。なんぼぅなんでも、あれじゃあ、あかんやろ」と、弟が言うので任せてしまったけれど、弟の船に乗って今頃は、海に網を降ろしているだろうか。ゲームのキーしか押したことのない華奢な手が、網から跳ねる魚を外しているのだろうか。

日差しに弱い息子のアトピーをかばって、なんでも代わってやったのが悪かったのだ。「おかん、やっといて」で済ます息子の姿が時に好ましく、時にうとましい。体力の逆転をみると、今頃後悔しても、もう遅いけど。

「黙って入って来んな」という罵声を聞かずに、部屋へスルッと入った。何日も留守をしている息子の、部屋の雨戸を開ける。意外に片づいたベッドの廻り。うすくたまりはじめた埃。部屋の真ん中に丸いクッション。まるでへしゃげかけた風船みたいだ。

窓の向こう、海の方から光が差し込んでくる。微かな波の音がする。息子は光も見ず、風の音も聴かず雨戸を閉ざしたまま、この丸いクッションに、いつでも、いつまでも倒れこんでいたのだろうか。

風船のクッションにそっと頭を載せる。そして背中を載せて横たわる。ザワザワザワと耳元にビーズ玉のこすれる音、おだやかな暖かみが、背中から押し寄せてくる。窓から入る、葉裏をすり抜けた風。

息子はどこへ行ってしまったのだろう。

(「新現代詩」9号所収)

ひと言
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by hannah5 | 2010-02-19 19:15 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(139) 「やさしい蘇生は穿たれた喪失からひろがる」 (松尾 真由美)   


やさしい蘇生は穿たれた喪失からひろがる


ひややかに過ぎさる水の流れをまといながら 夜の蝟集に耳を澄まし あやうい雨音の感触とともに消えかかった原画をなぞる 放縦な痕跡がにじむ境界線 つねに脱色をくりかえす像の切断面 やわらかな被膜であったもの 種子の発芽をうながし ほそい裂け目にあえぎ 変調する囁きをもたらす おそらくはやさしい抑圧から逃れるため 私は必然の衝動をよそおい 宙吊りのままに閉じられた白紙の部分を探っていく

無形の気配にだたようかすかな叫びをたぐり 手探りで解体するとおい記憶の ゆらぐ幻想に彩られた記憶にもたれ 届かない手紙をつづる目覚めの朝 まるで新しい誕生を求めるように熟した卵をかかえ ぬくもりの侵食から綻びはじめた私の円環のひそやかな悦びは あなたの水脈へとつながり あなたの祈りの密度をむさぼる とたえば夏の汗にまみれたあつい愛撫によって 免れえない息苦しさにねじれ いくどもあなたの胸を刺した指先の刃は私の著しい転倒をさらし はかない苦痛でかたどる互いの翳の罅 鏡の傷 すでにあなたの悲鳴は私の内奥で育まれ 抗うほどふかい呼応にしずみ 封じるほどあらわな服従をまねき 透明な交感をねがい 夥しい反復がうがつたしかな侵犯は 未分化の核をになう私の避けがたい磁場であった

そうして束ねていく摩滅の予兆に魅入られ 言葉と言葉の間隙にほのめく意味の領域は 翼の名残をのこすさざなみの息遣いをつたえ 晴れやかな均衡をたもつ 戻ることはない接点がひろげる永遠の躍動 その行方におびえ逸楽の裁断をつづけ あなたのあたたかい掌を葬りつづけ 私の盲目をあばくかなしい腐乱のうえ 真昼の波に垂直に落ちる日差しとなってあなたは輝き 互いの横顔を照らし したたかに裸体の露出をつらぬき あなたと私はおなじ形に柩を組み立てたとき相殺される

(松尾真由美詩集『燭花』

ひと言
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by hannah5 | 2010-01-31 23:15 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(138) 「いまだ咲かない零度の種子」 (松尾 真由美)   


いまだ咲かない零度の種子


稚拙な覆いがきえる
追放の春
もうひとつの
痛点へと
地下に蠢く
純化の根を指し
にぶい彩度の
影が膨らむ

あるいは可動性の溝をひっかき緩やかな円環の変質をくだっていく

うすく
枠組みをくずし
つよい風の音にそって
彼方のあざやかな輝度を想う
色褪せていくこの磁場の
親密な腐蝕をたぐり
ながれる時間の
無為の束縛に慄く
僅かな差異がもたらす
不完全な擦過の反映
いつも折れまがった侵食の形で
介入する寒気に応じ
いかがわしい露呈に赴き
そうして砦の細部から武装を始め
私は蛹の身振りでゆらめく
熱い硬直がひろがる胸元をあなたにさらし
半眼にちぎれた向こう岸には
たしかにささやかな谺を充たすやさしい内部があって
裏付けのない杭を穿ちあなたの晴れやかな鉱脈へと歩んでいく
しろい画布のような鉱床に横たわり
あなたの触覚の損傷にもぐりこみ
あわい余剰のなかでいっそう淫らに手足を伸ばす
剥脱された夢想を取りもどすため私たちは柔らかく重なる
重なり後退し血腥い訂正をくりかえし
なお恋慕をつづける闇の未知なる発情を
ひたすらあなたに渡していく
遠い魅惑の密度をさぐり
遥かな稜線にためらうほど
おろかしく
届かぬところまで
裸体のまま漂う

せめて
あたたかい檻を作り
あなたを閉じこめ
私を眺める
いや
私を閉じこめ
あなたの瞳に
抗うのだ

果てない誘惑だけに感応し
至近の距離を計れない
その曖昧な陥没
あらわな落度
きっと
狭窄する往還は
これらの澱みを湛えた川となり
私たちをめぐっている
幾多の小さな亡骸が浮かぶ
かなしい
跛行に
すでに存在した
剥離の渦をただし
いつまでも慣れない
屈折の素描に眩む

だからこそ奔放に抱きあい出口のない未完の消滅をもとめる

辺境のあらあらしい焦慮において
はかない充溢の気配を孕む
あなたと私は誰と誰?
交互に渇きを癒したあと
たがいの脆さを貫き
やがてつまずく
極を引摺り
さらに仮象の
淵に
溺れる

(松尾真由美詩集 『密約―オブリガート』 より)

ひと言
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by hannah5 | 2009-12-22 20:40 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(137) 「生まれなかったあなたへ」 (中村 純)   


生まれなかったあなたへ


ジャガイモの皮を剥くとき
不意に鳩尾(みぞおち)にせりあがるニュース

 渋谷のネットカフェのトイレの便器で、臍の緒のついた男の
 嬰児の遺体が従業員に発見された。二十三歳の無職の母親逮捕。

若い女が「母親」と呼ばれたのはそれが初めてだっただろう

トマトの赤い実を刻むとき
胎児の頭は私の胞衣を破り 子宮から先の管を通る
闇を超えて産まれようとする者の あの痛み
それは私から胎児を引き剥がす痛み
胎児の痛みだったか 私の痛みだったか わからない
若い女の痛みだったか 私の痛みたったのかも 思い出せない

あなたがトイレの管から再び産まれることはない
玉葱を刻むとき
湖(うみ)の匂いのするあなたを流す推薦の音が耳を劈く

一度も肺呼吸をしないまま 永遠に泣かない赤ん坊
羊水から出たあなたを受け止めたのは
助産師たちのまだ若い手ではなく
体じゅうの水分を搾り出してしまった私の代わりに泣いた
若い女医でもなく
チカチカと点滅する蒼白い蛍光灯を反射する冷たい 便器
跳ねる魚(たいじ)の白い肉・・・・・・

 どうしたらよいのかわからなかったから、ひとりでトイレに産んだ

それはいつかの女(わたし)たちだったかもしれないね
未来なのか過去なのか もう思い出せないけれど

あなたよ ひとりさまよう身重の女の無言の口を開かせよ
ネットでつながる無名の他者にすがった女から産まれた孤児(みなしご)よ
あなたを産み 生むことができなかった女は
制服の男たちに連れられていき
あなたに吸われなかった乳房は固く凍えていったろうに

私はあなたを宿す
それは母性ではなく 孤独な私たちの彷徨
鳩尾を気にして 夕暮れのキッチンに立ち尽くす おんな

(詩と思想11月号所収)

ひと言
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by hannah5 | 2009-11-04 23:18 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(136) 「海の家族」 (中村 純)   


海の家族


そのとき海の匂いがした
ぷらんくとんをたくさん含んだ
いのちをはぐくむ海
もう一度 大波が寄せれば うまれる
呻きの向こうで 高波のしぶきが飛翔した

「もう一度!」
叫ぶ助産婦たちの声にあわせて
私は波打ち際に 思い切り走って
君を迎えに行ったよ

私の軀は破れて裏返り
大量の海水がざぶんと押し寄せ
君は打ち上げられた

海水の匂いのする君は
私のはだかの胸にうつぶせにされて
やがて首を少しあげ
薄目をあけて 世界を見渡した

「パパとママのところに来たのね」そう言うと
「えっ えっ」とちいさな声をあげ
乳房をさがし始めた

やわらかなくちびると髪
うまれたてのいのちの
はだかの美しさよ

彼岸から此岸へ くらい海を渡って来た君
私は身二つになり もう一度うまれて
はじめて パパとさんにん
海の家族になった

このまま さんにんぽっちなら ずっと幸せだね
やわらかなエゴイズムに
ゆらゆらと心地よくゆれる舟
くらい海を超えて
もう一度 世界に素足で降り立ってみよう

世界と和解した夜


(中村純詩集 『海の家族』 より)

もう一篇
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by hannah5 | 2009-09-21 23:41 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(135) 「終焉」 (杉本真維子)   


終焉


なぜ見るの、こころの突き当たりで靴をぬぐ、段差はすこし、一歩あがって、
低い水平の湖、縞模様に上方へだんだん増やしていくと、ハンガーの穴から覗く、わたし
の空がある。みなもがぱちぱち鳴る、光よりも音が先に泡だつこともある、ということを、
紙に、薬のように散らして、三角にたたんで、神経は穏やかに、終わっていく。握りしめ
て放った、草花の汁が爪を汚してうれしかった。泥をのみ、引っかかった小枝を
歯間からつまみだす、その仕草がすきだ。肩をさがして、挨拶の愛撫をする手がかたっと
地に落ちても幸せであるという根拠が、極細の光にこもり、誰も信じないすがたで、
ときどき紅を真似て、すぐに逃げていく。どこへ。なぜ見るの。
この部屋には似顔絵があって、批判的なまなざしで、手をにぎり、連れていくあなたを
初めてだきしめたいと思った。
馬の血、だれかと分け合って飲んだ
ひひん、と喉はいつも、小さく鳴っていないか
カラの声に言葉をそっと入れ
日本語に見立てたので、わたしの感情はてっていてきに一定している

突き飛ばした男の、下半身が泣いていた、
泡を凍らせ、数年後にわたしは、腹に受け取ろうとした
できません、と拒む医師の清潔な襟と深い病いをちらり見比べ、
まだ勝っているうちは治らない。
(水と食事を絶った硬くしなびた裸体にこそ、もっとも原始的な性欲は待ち望まれ、
果てた馬の波立ったウムラウトの唇のかたちで生は終わっている)


(添えられた言葉)
嘘を映さない鏡について一晩中、ある人と対話しながら考えていました。ある人というのは、とても沈んだ気持ちでいたときに、一本の赤鉛筆から突然現れた女性です(わたしは普段、絵を描かないのですが)。最近は、自分の過去の時間のなかで存在した、たしかな愛を忘れることで、いとも簡単に現在はくずれ、混乱し、見えなくなるものなのだと教えてくれました。その愛の膜の下に覆われているものが無数にあるので、忘れてそれを剥がしてしまうと、なかからうようよと別のものが出てきて、精神はひどい仕返しにあいます。何を優先したか、何が優先されたか、という事実は、どんな結果であっても、現在のわたしの紛れもない存在表明としてあることを記しておきたいです。


(現代詩手帖9月号所収)

ひと言
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by hannah5 | 2009-09-07 14:24 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(134) 「プロポーズ。」 (りす)   


プロポーズ。


歩道橋が長すぎるので途中で諦めて、壊れた洗濯機の話をする。眼下を灯りのない貨物列車がいつまでも通り過ぎて行く。君は厚い眼鏡をハンカチで拭きながら熱心に相槌を打ってくれる。君の相槌の品揃えは、帝国ホテルのコンシェルジュみたいに完璧だ。僕の言葉は砂漠に降る雨のように、君の相槌に吸収されてしまう。だから僕は君の体内のどこかに、僕の名前を冠した瑞々しいオアシスがあるんじゃないかと常々思っているんだ。それにしても、今日に限ってどうも会話が食い違う。どうやら、僕は二槽式洗濯機について話しているのに、君の頭には全自動洗濯機しか浮かんでいないようなのだ。脱水槽が回転しない、という状況を理解させるのに、貨物列車が五本も通過していった。でもこの程度の食い違いは、君が眉間に皺を寄せて器量を損なうほど、深刻なことではないんだ。マーガリンとバターのように、片方を知らなければ、どっちがどっちでもいいような代物だ。そんな些細な錯誤はこの、長すぎる歩道橋に比べればたいした問題ではない。シェイプアップしたいの、と君が言うから、わざわざ歩道橋なんて前近代的な迂回路を選んだのはいいが、どうにも階段の数が多すぎはしないか。歩道橋の途中に自販機を置けばいいのに、という君の本末転倒な提案にも、そこそこの市場価値はあると思うよ。だけど、最初から踏切を渡れば良かった、なんて愚痴を言うつもりはない。君を見習って、これからは提案型の人生を送ろうと思ってるんだ。君は今、二槽式洗濯機の説明を求めている。説明なんて回りくどいことはやめにして、この際、結婚しようじゃないか。結婚して僕の洗濯機で、君が自分の下着を洗ってみれば、すべては一瞬に了解されるんじゃないか?だからさ、結婚しよう。僕が二槽式洗濯機の柔軟な使い勝手についてくどくど説明すれば、へえ、とか、ふーん、とか、むむむ、とか、君の相槌の訓練にはなるかもしれないが、最近わざわざ全自動洗濯機から二槽式洗濯機に買い換えた、うちの母親の気持ちは一生理解できないだろう。いや別に母親と同居してほしいと言ってるわけじゃないし、安易な文明化に警鐘を鳴らしているわけでもない。ましてや、洗濯と選択の掛詞で恋のボディーブローを狙ってる訳でもない。文明化、大いに結構。スローライフ、断固反対。ところで最近、やけに貨物列車が増えたと思わないか?気のせいなんかじゃなくて、実際に増えてるんだよ。この理由をくどくど説明すると、君のオアシスが溢れてしまうから止めておくけど、ほら、あそこに見えるのが越谷ターミナルだよ。あそこは、たくさんのコンテナがお迎えを待っている幼稚園みたいな所だ。そんな切ない場所だから、人目につかない田舎に貨物ターミナルはあるんだ。結局、僕が言いたいのは、この際、君の心を脱水槽に放り込んでしまったらいい、ってことなんだ。いつまで君は洗濯槽の中でぐるぐる回ってるんだ、ってことなんだ。そういえばこの間、眼鏡を縁なしに変えようか、なんて悩んでたよね。そんなの結婚しちゃえば、すぐ解決することだよ。ウェディングドレスに眼鏡は似合わないから、コンタクトにするしかないだろう?だから二人で二槽式洗濯機のある生活をしてみようじゃないか。踏切より歩道橋を選んでしまう君は、きっとすぐに気に入ると思うよ。でも、さっきも話したように、肝心の脱水槽が壊れているんだ。だから今しばらくは、君の体内のオアシスが枯れてしまわないように、遠回りするデートをこのまま、続けていくしかないと思ってるんだよ。


( 『文学極道』 所収、文学極道2006年創造大賞受賞)

ひと言
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by hannah5 | 2009-07-17 23:29 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)