カテゴリ:詩のイベント( 232 )   

日本詩人クラブ新人賞   


第26回日本詩人クラブ新人賞に、喜和堂の同人颯木あやこさんの 『七番目の鉱石』 が受賞しました。9日(土)はその授賞式でした(於東京大学駒場キャンパス21 KOMCEEレクチャーホール)。『七番目の鉱石』は颯木さんの3冊目の詩集です。詩集をいただいたお礼のはがきに、こんなことを書きました。「この詩集は本当に鉱石のようだと、最初に通読した時に思いました。鉱石のように固く、磨いていくとやがて美しい宝石になる。たった一つの原石から、やがて美しく輝いて、人を魅きつける宝石になることへの確信に近い願望・・・(中略)・・・ひりひりするような孤独と痛み、それでも見失うまいとする希望と光。」前の2冊の詩集は読んでいないのですが、本の栞や祝辞を述べられた人たちの言葉から、『七番目の鉱石』が完成度の高い詩集に仕上がっているという印象をもちました。颯木さん、受賞おめでとうございます。これからも颯木さんの作品を楽しみにしています。

新人賞の他に日本詩人クラブ賞の贈呈もあり、林嗣夫さんの 『そのようにして』 が受賞しました。(颯木さんの後ろに座っている方が林嗣夫さんです。)詩人クラブのもうひとつの賞である詩界賞は該当者がいませんでした。


b0000924_20352220.jpg
作品を朗読する颯木あやこさん




雨だれ

   颯木あやこ詩集 『七番目の鉱石』 より

黒豹だ

きっと雌だ

いま 屋根に爪先で着地した
ひとあし ひとあし歩き回り
(大きく育ったマグノリアの花を貪り)

天井の下 わたしは
毛布をかぶり直し
その 爪の先端から放たれる
ぬれぬれとした光から 身を守る
身を

黒豹
   窓を
     かすめ

爪の光に穿たれて
全身 孔だらけ 灰色の蜜 噴き出し
寝床に染みだけ残して
消え去ってもよい
こんな夜に

わたしの幻影が
月にさえ背を向けて
道のカーヴの奥行きへ
吸いこまれてゆくのを見た と
青に近いほど白い影だった と

ひとり 蟋蟀のような男が
秋に呟いてくれればそれでよいのに

黒豹は
土砂降り
捨て子となって
流れてゆく





【贈呈式式次第】

1. 開会の言葉                           太田雅孝

2. 会長挨拶                             武子和幸

3. 経過報告                             村尾イミ子

4. 選考経過
   第49回日本詩人クラブ賞                  硲杏子
   第26回日本詩人クラブ新人賞               根本明
   第16回日本詩人クラブ詩界賞(該当者なし)       三田洋

5. 賞の贈呈
   第49回日本詩人クラブ賞 詩集『そのようにして』    林嗣夫
   第26回日本詩人クラブ新人賞 詩集『七番目の鉱石』 颯木あやこ

6. 受賞者の紹介
   林嗣夫氏について                        石川逸子
   颯木あやこ氏について                      葛原りょう

7. 受賞詩集から試作品朗読
   詩集『そのようにして』から                   林嗣夫
   詩集『七番目の鉱石』から                   颯木あやこ

8. 花束贈呈

9. 受賞者挨拶
   第49回日本詩人クラブ賞                   林嗣夫
   第26回日本詩人クラブ新人賞                颯木あやこ

10. 閉会の言葉                           細野豊
    (敬称略)



.
[PR]

by hannah5 | 2016-04-12 20:38 | 詩のイベント | Comments(0)

鈴村和成×野村喜和夫「テロと三島と60年代」   


b0000924_11452771.jpg
対談中の鈴木和成さんと野村喜和夫さん


4月7日(木)、鈴村和成さんの新著『テロの文学史 三島由紀夫にはじまる』の刊行を記念して、野村喜和夫さんをゲストに迎えてのトークイベントがありました(場所は本屋B&B)。三島由紀夫を中心に、テロとは何か、三島由紀夫VS作家や詩人などの文学者たち、三島由紀夫の60年代、鈴村さんや野村さんの60年代、三島由紀夫の問題等、ぐるぐると渦を巻くようにして(スパイラル)のトークでした。鈴村さんは金子光晴の足跡を訪ねて野村さんとマレーシアを旅行されたせいか(その旅行記は野村さんの詩集 『芭(塔(把(波』 に描かれています)、お二人のやり取りもこの本の内容より深いところでやり取りされていて、わりと突っ込んだ内容になっていたように思いました。

b0000924_11454476.jpg


鈴村和成氏プロフィール
1994年 名古屋市生まれ。東京大学仏文科卒。同修士課程修了。横浜市立大学教授を経て、同名誉教授。評論家。フランス文学者、紀行作家、詩人。
評論 『写真とフィクション』、『幻の映像』、『バルト テクストの快楽』、『ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎』、『愛について プルースト、デュラスと』 、紀行 『ランボーのスティーマー・ポイント』、『金子光晴、ランボーと会う マレー・ジャワ紀行』、『ヴェネツィアでプルーストを読む』、紀行小説 『ランボーとアフリカの8枚の写真』 (藤村記念歴提賞)、詩集 『ケルビンの誘惑者』、『黒い破線、廃市の愛』 など。( 『テロの文学史』 よりコピー抜粋)



.
[PR]

by hannah5 | 2016-04-11 11:43 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第10回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の最終講義は「詩的実験の現在」と題し、実験詩のいくつかが紹介されました(3/28)。紹介された主な詩人は藤井貞和、レーモン・クノー、ジョルジュ・ペレック、ジャック・ルーボーなどで、読んだ作品は藤井貞和の詩「〈柳虹とかいふ人の、......実に最劣の詩、ではない、詩のやうなものばかりだ。〉」、レーモン・クノーの詩集 『100兆の詩篇』、野村さんの詩集 『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』 の中の「(お肉さん、お肉さん、)で始まる部分と「街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、」が繰り返される部分(呪文パート)、野村さんが2003年11月8日の読売新聞に寄稿した「地球の顔21 セビリア(スペイン)」でした。(スイスで長編詩「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」を書き上げた後、野村さんは妻の眞理子さんを伴ってスペインのセビリアを訪れます。セビリアの旧市街には「蛇通り」という名の通りがあり、蛇通りの上には日除けのための布が張り巡らされていて、詩との偶然に驚いたことが書かれています。)また、篠田昌伸氏が「(お肉さん、お肉さん、)」と「街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、」を合唱曲として作曲し、2006年にみなとみらいホールで発表された合唱の録音も聴きました。

詩の実験が繰り返されてきた100年、そこで使われてきた言葉は人の常識を超え、言葉の法則として定着したものを覆し、分け入ることが困難なように思われますが、実験を繰り返すことで言葉の本質と核心に迫り、何物にもとらわれない自由な言葉が立ち現われていることを感じます。ふつう言葉は意思疎通と伝達の手段として使われますが、音楽や絵画のように芸術の高みにまで昇るせることができると、詩的アヴァンギャルドの講義を通して確信することができました。

次回の「日本の詩を読む」は4月18日から、四季派についての講義が行われます。場所は淑徳大学池袋サテライトキャンパスです。興味のある方はご参加ください。



「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」より


        野村喜和夫


街の、衣の、
いちまい、下の、
虹は、蛇だ、
街の、衣の、
いちまい、(meta)の、
蛇は、虹だ、
かすか、呼気、カーブして、
青く、呼気、カーブして、
わたくしは、葉に、揉まるる、
葉は、水に、揉まるる、
街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、
蛇の、粋の、いちまい、横の、声は、ヨーガだ、蛇の、
粋の、いちまい、(para)の、ヨーガは、声だ、声の、筋の、
いちまい、上の、景は、さやぐ、声の、筋の、いちまい、(poly)の、
景も、さやぐ、景を、あら敷き、結合の、きゃっ、添え、膜を、あら敷き、
分泌の、ひゃっ、添え、ふささ、さむ、衣の、にぎ夢、ひたた、たむ、衣の、
ざざ夢、ららら、ひとの穂、飛ぶよ、ららら、ひとの腑、浮くよ、街の、
衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、蚶だ、蚯だ、蚫だ、蛔だ、
蛟だ、蜒だ、らむ、だむ、そよぎ、だむ、たむ、さわぎ、
蚶だ、蚯だ、きゃっ、ぎゃっ、きゃみ、髪、神、
街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、
わたくしは、葉に、揉まるる、
葉は、水に、揉まるる、
かすか、呼気、カーブして、
青く、呼気、カーブして、
街の、衣の、
いちまい、(meta)の、
蛇は、虹だ、
街の、衣の、
いちまい、下の、
虹は、蛇だ、

(野村喜和夫詩集 『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』 より)



.
[PR]

by hannah5 | 2016-04-02 21:32 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第9回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の9回目の講義は吉増剛造についてで、講義のタイトルは「吉増剛造あるいは未聞の翻訳空間」でした(3/14)。吉増剛造に感化されたり影響を受けた人は多いと思いますが、私自身は食わず嫌いというか、読んでも頭の上を素通りして行く感じがしてふだん彼の詩は読まないのですが、学生時代、吉増剛造に憧れていたという野村喜和夫さんの講義は説得力があって、私なりに楽しめました。吉増剛造の手書きの原稿は細かい書き込みがたくさんあってわかりづらいのですが(あのテクストから印刷するのはかなり大変な作業だろうと思います)、実際に彼が朗読するのを聴いてみると思ったほど難解ではない印象があります。教室で読んだ詩は「赤壁に入って行った」(『オシリス、石ノ神』)、「光の落葉」(『The Other Voice』)、野村さんの「小言海」(『難解な自転車』)と吉増剛造論を述べた「ニューオルフェウス計画」(『オルフェウス的主題』)でした。


赤壁に入って行った

      吉増剛造

 炎暑八月、私の眼に赤壁が映った。川のむこう、鉄橋はかかっていない。総重量噸はどうやってはかるのか。私の、視線を吊り上げはじめた。川のむこう、聳えている赤壁に、その内奥に彫刻物が忍び込んで、はっしている光がみえる。
 光がみえる。
 山中の川幅は、五十メーター位、川床は岸から下って三メートル?
 私は測量士、川筋の、私は測量士だ。
 川の川底を大水が通って行ったのはきのうのよるのこと? そのまたきのうのあさのこと? 下流に向って靡いている、土砂にまみれてひかる草木に話しかけた。
 私、交換手? 私は交換手?
 大蛇のように怒って? 豊かに? きのうのよるなのか、きのうのあさなのか、通って行った、大水の背丈を測ると、貴女は、一メートル七十五センチだ。熱い息吹きを感ずる、背に脚に股に胸に背筋に……抜き去るように、身体を吊り上げて、岸に身体を揚げて行った。
 私は、河川の遊泳監視員? 遊泳監視員? 判らない。
 脇に、鮎供養塔が立っていて、その聲におどろく。
 そばに行くと、私達の聲も囁くように優しくなる。そのそばに行くと、細かくきらめく小魚や魚の聲が聞こえて来た。私達は清流のイメージを、しばらくさわって、つかまえていた。
 砂の物? 砂の物?
 そのとき、低くなり小山になり、小聲になって、鮎や鮎の頬に指をつけていた、砂になった、私は流れた?
 そして、ふりかえると、対岸の大赤壁は、一メートルか二メートル、こちらの岸へ傾きかけ、石火、炎の貌――、その奥に宇宙も幾つか、彗星も、熊も、そして、私の掌にいたバードストーンも、赤壁の空を跳んでいた。

 古座上流、一枚の大きな壁のたつ不思議なところ。

 こさかな、こさか、
 な、そここさかな。

 八月十一日
 赤壁は私に入って行った。



.
[PR]

by hannah5 | 2016-03-22 19:37 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第8回)   


8回目の「詩的アヴァンギャルドの100年」は谷川俊太郎を中心に講義が行われました(3/7)。タイトルは「谷川俊太郎あるいは日本語のレッスン」。詩的アヴァンギャルドの詩人の中に谷川俊太郎が入っていたので、平易な日本語で書かれた谷川俊太郎の詩のどこがアヴァンギャルドなのかと思っていたのですが、講義で取り上げられた詩を見ると、確かに他のアヴァンギャルドの詩人たちに負けずとも劣らずかなりアヴァンギャルドです。私自身谷川俊太郎が好きで、毎日のように俊太郎の詩を読んでいた時期がありますが、実験的な詩があることには気がつきませんでした。もしかすると今まで取り上げられた詩人たちの中で、谷川俊太郎はもっともアヴァンギャルドな詩人かもしれません。それにしても、平易な言葉から実験的な言葉までその語彙はかなり豊富で、しかもいまだに創作意欲は衰えることなく書き続けているのですから、谷川俊太郎という人は驚異的な才能をもった詩人です。教室で読んだ詩は「壹部限定版詩集〈世界ノ雛形〉目録」(一部)、「日本語のカタログ」(一部)、「コップへの不可能な接近」、野村喜和夫さんの「斧の平和」、生徒の希望により岩成達也の「鳥の骨組みに関する覚書・同補足」(一部)でした。



コップへの不可能な接近

       谷川俊太郎


それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位としても用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられているけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)製作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由ではないにちがいない。
それほ主として渇きをいやすために使用される一個の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされくぼめられたふたつの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの美として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれをこの地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当は何なのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。



.
[PR]

by hannah5 | 2016-03-09 21:10 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第7回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の7回目の講義は、入沢康夫とその作品についてでした(2/29)。講義のタイトルは「入沢康夫あるいは死の脱構築」でした。実は私は入沢康夫は食わず嫌いで、読んだことがありませんでした。『かりのそらね』という詩集を持っているにはいるのですが、あけてみてもどうも読みにくい。野村喜和夫さんは『入沢康夫の詩の世界』という本を城戸朱里さんと出されているくらですから、入沢康夫についてはかなり詳しくて、そんなことから今回の講義はかなり面白く、オツムの中がふつふつ煮えくりかえるみたいに楽しかったです。と言っても、たぶん解説がないと入沢康夫は簡単には読めないだろうと思います。教室で読んだ作品は「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩―第九のエスキス」、「焦慮のうた」、「売家を一つもっています―作文のおけいこ―」、「『声なき木鼠の唄』のための素描」、「声なき木鼠の唄の来歴」、野村さんの「くねる日付/ムーヴィングアウト―〈入沢康夫的〉なものの方へ」でした。



かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩―第九のエスキス

        入沢康夫

一、

詩碑(しひ)の裏側(うらがは)から、甲高(かんだか)い嗤(わら)ひ声(ごゑ)とともに立(た)ちのぼる苔水晶(モスアガート)の雲(くも)。その底面(ていめん)の鉤(かぎ)に吊(つ)るされ、茶色(ちゃいろ)の幟(のぼり)のやうにたなびいてゐる二重(にぢゅう)の夢(ゆめ)―昨日(きのふ)までの私(わたし)たちにとつての、かけがへのない目当(めあて)。

二、

誰(だれ)かれの足跡(あしあと)は乾(かは)ひた風(かぜ)に吹(ふ)き払(はら)はれて行(ゆ)き、今(いま)はただ名(な)も知(し)れぬ花(はな)や石(いし)の挙(あ)げる声(こゑ)が、夕陽(ゆふひ)を浴(あ)びた橋(はし)の鉄骨(てつこつ)にまつはりつつまつはりつつ流(なが)れる。

三、

馬(うま)と雪(ゆき)の匂(にほ)ひの中(なか)で、私(わたし)たちは立(た)ちすくむ。あなたは知(し)らない。あなた自身(じしん)が生(う)み落(おと)した子供(こども)たちの行方(ゆくゑ)を、子供(こども)たちの現在(げんざい)の顔(かほ)はおろか、虫喰(むしく)ひだらけの画像(ぐわざう)のことも。

四、

あなたが心(こころ)に虚(うつろ)ろに座亜謙什(ざあけんじふ)の四文字(よもじ)で呼(よ)びなした男(をとこ)、その男(をとこ)もすでに遠(とほ)く遠(とほ)く去(さ)つた。すべてが冷(ひ)え、すべてが砂(すな)に帰(かへ)るこの裾野(すその)で、思(おも)ひ出(だ)したやうに爆竹(ばくちく)がはじけ、おどろいて舞(ま)ひ立(た)つ白鳥(はくてう)のひと群(む)れが、三度(さんど)輪(わ)を描(ゑが)いたのち、丘(をか)の向(むか)ふへ落(お)ち込(こ)んで行(ゆ)く。

(五、

防風林(ばうふうりん)の梢(こずゑ)から、またひとしきり降(ふ)る朱(あか)い実(み)、あるひは朱(あか)い実(み)の亡霊(ばうれい)。)

(六、

死者(ししや)たちを乗(の)せた客船(きやくせん)の灯(ひ)は蛍籠(ほたるかご)のやうに動(うご)き、置(お)きざりにされた唐草文様(からくさもんやう)の風呂敷(ふろしき)の中(なか)で、標本箱(へうほんばこ)とゴムバンドがひそひそと、古(ふる)い、そして幼(おさな)い恋(こひ)を語(かた)る。)

七、

鈴(すず)のやうな、房(ふさ)のやうなものが、いくつもぶら下(さが)る木(き)を、雁皮紙(がんぴし)に血(ち)で描(か)いたことがあると、いまだに言(い)ひはりつづけるいささか滑稽(こつけい)で、いささか深刻(しんこく)な男(をとこ)、その男(をとこ)のまわりには、飛(と)ぶ鳥影(とりかげ)、走(はし)る獣(けもの)の影(かげ)とてもない荒野(あれの)がひろがり、そこに飴色(あめいろ)のガラスでできた瓶(びん)の破片(はへん)がちらばつてゐる。

八、(欠落)

九、

もつれにもつれた白髪(はくはつ)(それはあなた自身(じしん)の魂(たましひ))によつて封印(ふういん)された十重二十重(とへはたへ)の挑発(てうはつ)。いま、一(ひと)つの時節(じせつ)の終(をは)るに当(あた)つて、わづかに身(み)じろぎし、身(み)じろぎしつつ凍(こご)えて行(ゆ)く掟(おきて)の鶏(とり)たち。




註)この詩はすべての漢字に振り仮名がふってあるのですが、ブログでは振り仮名にならずかっこの中に入ってしまいます。悪しからずご了承ください。
[PR]

by hannah5 | 2016-03-04 21:33 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第6回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の6回目は「シニフィアンの閾」と題し、北園克衛と新國誠一を中心に講義が行われました(2/22)。モダニズムに影響を受けた西脇順三郎はやがて荒地派、北園克衛のコンクリートポエトリー、瀧口修造のシュルレアリスムへとその影響力を広げてゆきました。北園克衛のコンクリートポエトリーは海外で高い評価を受けましたが、日本では異端と見られ、大きな文学的流れにはなりませんでした。北園克衛はやがてコンクリートポエトリーからプラスチックポエトリーへと移行していきました。(北園克衛が発行した機関誌 『VOU』 は反抒情、反文学を掲げ、白石かずこが参加しています。)コンクリートポエトリーを代表するもう一人の詩人、新國誠一の作品も日本より海外で評価されました。新國誠一もやがてコンクリートポエトリーを離れ、「空間」へと移行していきました。コンクリートポエトリーは面白いと思い、一時私も試みたことがありますが、あまり長続きはしませんでした。教室では北園克衛の「記号説」、「黒い肖像」、新國誠一の「空隙」、「さくらとらくだ」、野村さんの評論「シニフィアンという閾-新國誠一と那珂太郎」(2009年2月号の現代詩手帖に掲載)を読みました。


黒い肖像

   北園克衛

絶望

火酒





あるひは



のなか











距離

孤独




に濡れ

梯子


に腐っていく

その



脆い
円錐

孤独

部分




,
[PR]

by hannah5 | 2016-02-29 17:34 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第5回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の5回目は、「瀧口修造と詩的実験」と題して瀧口修造を中心に講義が行われました(2/15)。西脇順三郎の門下生だった瀧口修造は西脇を通してシュールレアリスムを知るようになりますが、その詩風は師の西脇よりずっとシュールレアリスム的です。しかし、詩人として出発した瀧口でしたが、戦後は美術批評家として前衛芸術運動を牽引するようになり、詩は一切書かなくなりました。教室で読んだ作品は瀧口の代表作とも言える「絶対への接吻」、「地球創造説」、西脇の「世界開闢説」、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(一部)、野村喜和夫さんの「序詩(はじめてのからだの者は)」(詩集 『幸福な物質』 所収)でした。「絶対への接吻」は詩の中からシュールレアリスムが立ち昇ってくるような作品で、詩としての純粋性を感じさせる詩です。



絶対への接吻

     瀧口修造


 ぼくの黄金の爪の内部の瀧の飛沫に濡れた客間に襲来するひとりの純粋直観の女性。 彼女の指の上に光った金剛石が狩獵者に踏みこまれていたか否かをぼくは問わない。 彼女の水平であり同時に垂直である乳房は飽和した秤器のような衣服に包まれている。 躐の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る。 彼女は時間を燃焼しつつある口紅の鏡玉の前後左右を動いている。 人称の秘密。 時の感覚。 おお時間の痕跡はぼくの正六面體の室内を雪のように激変せしめる。 すべり落された貂の毛皮のなかに発生する光の寝台。 彼女の気絶は永遠の卵形をなしている。 水陸混同の美しい遊戯は間もなく終焉に近づくだろう。 乾燥した星が朝食の皿で轟々と音を立てているだろう。 海の要素等がやがて本棚のなかへ忍びこんでしまうだろう。 やがて三直線からなる海が、ぼくの掌のなかで疾駆するだろう。 彼女の総體は、賽の目のように、あるときは白に、あるときは紫に変化する。 空の交接。 瞳のなかの蟹の声、戸棚のなかの虹。 彼女の腕の中間部は、存在しない。 彼女が、美神のように、侵食されるのはひとつの瞬間のみである。 彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのように陰毛のあいだにある白晝ひとつの白晝の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の傳説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 霊魂の喧騒が死ぬとき、すべての物質は飽和した鞄を携えて旅行するだろうか誰がそれに答えることができよう。 彼女の精液のなかの眞紅の星は不可溶性である。 風が彼女の緑色の衣服(それは古い奇蹟のようにぼくの記憶をよびおこす)を捕えたように、空間は緑色の花であった。 彼女の判断は時間のような痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知がぼくの指を引っぱった。 すべては氾濫していた。 すべては歌っていた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のように光っていた……… (sans date)



.
[PR]

by hannah5 | 2016-02-17 20:23 | 詩のイベント | Comments(0)

アムバルワリア祭V   


b0000924_18471893.jpg


1月23日(土)、慶応義塾大学三田キャンパスに於いて西脇順三郎生誕記念のアムバルワリア祭が行われました。アムバルワリア祭は毎年1月に行われているようで、今回で5回目です。(私自身は去年から参加しています。)今回のテーマは「西脇順三郎と井筒俊彦―ことばの世界」で、新倉俊一先生が司会を務め、若松英輔氏、坂上弘氏、野村喜和夫氏、高橋勇氏の4人の登壇者が講演を行いました。私自身は西脇順三郎のファンでもないし、それほど熱心に西脇の詩を読んできたわけではありませんが、ちょうど今淑徳大学の「日本の詩を読む」で野村さんから西脇の講義を聴いているので、それを補う意味でもそれぞれの講演は大変興味深かったです。


【プログラム】

司会  新倉俊一(明治学院大学名誉教授)
登壇者 若松英輔(批評家)、坂上弘(作家、慶応義塾大学出版会会長)
野村喜和夫(詩人)、高橋勇(慶応義塾大学教授)

開会挨拶
導入コメント  新倉俊一
高橋勇    「文学部の西脇・井筒」
野村喜和夫 「神秘と諧謔―西脇から井筒へ、井筒から西脇へ」
若松英輔   「コトバの詩学 西脇順三郎と井筒俊彦」
坂上弘    「井筒俊彦の内なる西脇順三郎」
Q&Aセッション
(敬称略)


<補足>
慶応義塾大学アート・センター 西脇順三郎アーカイブ:慶応義塾大学アート・センターは、西脇研究の第一人者である明治学院大学名誉教授・新倉俊一氏より2010(平成22)年度、西脇関連資料約800点を受贈し、2012年1月20日に「西脇順三郎アーカイブ」が開設されました。(アムバルワリア祭プログラムよりコピー抜粋)


.
[PR]

by hannah5 | 2016-02-02 21:01 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第4回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の4回目は、初期の西脇順三郎(イギリス留学から帰国し、第一詩集 『Ambarvalia』 を出版するまで)を中心に講義が行われました。西脇順三郎についてはすでに講義がなされていますが、西脇の教え子たちとの交流や詩論についての著作など、前回よりさらに深く掘り下げられ、西脇の違う側面が見られて興味深いものとなりました。資料として読んだのは 『シュルレアリスム文学論』 の「トリトンの噴水」、『純粋な鶯』 の「純粋な鶯」でした。「トリトンの噴水」は散文詩のような感じで、いかにも西脇らしい文章です。これが出た当時、世間はさぞ驚いたのではないかと思います。「純粋な鶯」は北園克衛の詩集に対する批評ですが、北園克衛に真っ向から切りかかる感じで、今なら恐らく編集者から異論が出るのではないかと思いました。



トリトンの噴水(一部抜粋)

 マダム・サピアンスの晩餐に昨晩招かれてキユプロスの第一日を過した。その朝、船の少年(足の裏に刺を立てた少年に似てゐる)におこされて、みると船は最早や波止場についてから一時間位過ぎてゐたらしい。すぐ近くの岡の上にアテネでは見たこともない樹木が光つてゐた。その影に真白い家がかくされてゐた。この都会は自分が想像してゐたよりもゴムのやうに感じた。急いで祈禱して、蜜をすこしすつて、少年に荷物を負はして、船を下り、角の長い牛が曳く二輪車を雇ってガタガタ動き出した。馭者はプラタノスの葉に包んだ何にかの実を食べて、アマラントスの花のやうなツバをはきながら、頻りと「ネータ・テクネマタ」といつて、元気よく話しかけた。テクネマタといふ神は聞いたことがなかつた。馭者へアテネからもつて来た銀貨を一枚渡した。『これは此処では通用しない』と馭者は云つた。『このテミストクレースの頭を見よ』と私は云つた。 『両替屋のばばあが知つてゐる。』
 何だか女神のやうに私は家へはいつた。グロオコンは二三年のうちにソフオクレースのやうになつてゐた。 『よく』 彼は云つた 『来た。二三ケ月滞在せよ。早速だが今晩サピアンス夫人が晩餐によんでゐるが、お前も是非行け』
 初めは辞退したが遂行つた。食事が済んで女が皆んなの別の室へ行つた後で、電気が消され、蝋燭だけの光りになつた。壁にかゝつてゐるヴィーナスの生誕の画のヴィーナスの足と薔薇を吹いてゐる男の顔が見えるだけであつた。従僕が来てブランデイと葉巻をくれて行つた。グロオコンが来て脇に坐つた。次にポレマルコス及びリキダスといふ青年とカロスといふ大学の教師が来た。是等の人物の壁画と同一の視覚の世界にある琥珀の軽業師の存在の如く見えた。是等の人物は皆喋つた。けれども聞えなかつた。
 サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つてゐる間に私は考へた。人間はナタ豆のやうに青くなつた。



純粋な鶯(一部抜粋)

 K君よ、君の出した本を批評することを約束してから長い間だまつてゐたが、実は君にやる言葉はない。君は言葉とか論理が嫌ひだから。しかたがないからsymbolsだけの手紙をかくことにする。無数のsymbolsを送るから君はその間をめぐつて考へてくれ給へ。実は僕は君の本ほど楽に読めるものは少いと思ふ。眼をつぶつてゐるダ鳥といふ小説のやう。葡萄の実が夜になると狐の鼻をなめにくる。これが『エッセイ集』の詩論の出発点である。しかしsymbolsはなにも象徴してゐない。だからsymbolsでない最後のsymbolはまだそれ自身を象徴するね。紫の円錐は君から遠く立つてゐる。
 待遇の記憶は君に非常に関係がある。
 ブルトンのちゞれ毛はpoisson solubleで、君を憂鬱にする筈がない。まるい魚。羅馬の春。コクトオの雨カツパはカトリツクの塔を避けてゐる。こゝに最早近代が終つて、新しいMoyen Ageが最後になつてゐる。脳髄の景色に太陽があたる時に贈物を君はとりかへさなければならない。
 アラビア人の文学を君は知つてるかね。
 アラビア人の音楽を君は知つてゐるかね。
 メタン瓦斯をもやして夢も彼等の象徴にすぎない。何を象徴するか。象徴するものがない時に象徴するものをさがす時に詩が出来る。
 これはとにかく詩の神であるから神の詩である。
 非常に愉快なヨツトだ。
 栗の言葉の指。
 MORTのGeburth。コクトオの生誕は故人のガマグチを空にする。だがペンペン草は海の方に向いて魚をとる。



.
[PR]

by hannah5 | 2016-01-23 06:17 | 詩のイベント | Comments(0)