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日本の詩を読む X 「日本の訳詩集を読む その2」   


10月21日(金)は「日本の詩を読む」の2回目の講義でした。今回は堀口大學の訳詩集『月下の一群』についての講義でした。

堀口大學は若い頃外交官を目指していたのですが、外交官試験に失敗し、また体が弱かったことから外交官の父親に連れられて長い間外遊をしていました。外国にいる間、フランス語の詩を愛し、どこに行ってもフランス語の文学書を読み、折に触れ個人的な遊び心で日本語への翻訳を試みました。ですから、当初は出版の意図はなかったようです。しかし出版してみると、初版1200部はじきに売り切れとなり、再版、三版、普及版まで版を重ねました。ここにはエスプリ・ヌーボー(新精神)と言われたギィヨーム・アポリネールの「ミラボー橋」を置いておきます。


ミラボー橋
     ギィヨーム・アポリネール


ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
    われ等の恋が流れる
   わたしは思ひ出す
悩みのあとには楽しみが来ると

    日も暮れよ 鐘も鳴れ
    月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ顔と顔を向け合はう
    かうしてゐると
   われ等の腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる

    日も暮れよ 鐘も鳴れ
    月日は流れ わたしは残る

流れる水のやうに恋も死んでゆく
    恋もまた死んでゆく
   生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

    日も暮れよ 鐘も鳴れ
    月日は流れ わたしは残る

日が去り月が行き
    過ぎた時も
   昔の恋もふたたびは帰らない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

    日も暮れよ 鐘も鳴れ
    月日は流れ わたしは残る



Le Pont Mirabeau
          Guillaume Apollinaire


Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait toujours après la peine

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
Tandis que sous
Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l’onde si lasse

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

L’amour s’en va comme cette eau courante
L’amour s’en va
Comme la vie est lente
Et comme l’Espérance est violente

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure.
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by hannah5 | 2013-10-27 01:07 | 詩のイベント | Comments(0)

これから年末まで   


最近いろいろな方たちから朗読会のお誘いをいただきます。以前のように時間の余裕のある時なら喜んで伺うのですが、この半年ほど本業がかなり忙しくなり、年末に向けてさらに忙しくなる予定です。そのようなわけで、年内は朗読会や詩の賞の記念式典などにはまず伺えないと思います。せっかくのお誘い、誠に残念ですが、そのようなわけで悪しからずご理解ください。


はんな

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by hannah5 | 2013-10-23 15:41 | ご挨拶 | Comments(0)

日本の詩を読む X 「日本の訳詩集を読む その1」   


「日本の詩を読む」の新しい講義が始まりました。今回のテーマは「日本の訳詩集を読む」です。日本の詩は翻訳詩に始まったと言っても過言ではありません。古くは中国の詩を訳し、後に漢詩として日本に定着したのが日本の詩の始まりでした。そして、明治以降は主にヨーロッパの詩の翻訳が中心となりました。講師は野村喜和夫さん、教室は今までと同じ淑徳大学池袋サテライトキャンパスで、講義は10/7, 10/21, 11/18, 11/25, 12/2, 12/16, 1/6, 1/20の全8回(6.45 p.m. – 8.15 p.m.)にわたって行われます。

これからの講義のスケジュール
1. 明治の訳詩集:『海潮音』(上田敏訳)、『珊瑚集』(永井荷風訳)
2. 大正の訳詩集:『月下の一群』(堀口大学訳)、『草の葉』(ホイットマン)(有島武郎訳)
  この時代は「名訳の時代」と言われましたが、この時代あたりで訳詩集の黄金時代は終わりになりました。
3. 戦後から現代へ:フランスのシュールリアリズム、アラゴン、エリュアールなどのレジスタンス詩(抵抗詩)、パウル・ツエラン(現代)
4. 翻訳の詩学:2つの論考:折口信夫「詩語としての日本語」、ウオルター・ベニヤミン「翻訳者の使命」
5. ランボーの日本における受容史:ランボーのテキストをパロディにした野村喜和夫さんの詩

このスケジュールは講義の回数より少ないですが、必要に応じて講義の内容が追加されるため、最終的には講義予定の内容は講義日数と一致する予定です。


*****


第1回目の10/7は上田敏の 『海潮音』 (明38, 1905)から「燕の歌」、「信天翁(あほうどり)」、「よくみる夢」、永井荷風の『珊瑚集』(大2, 1913)から「死のよろこび」、「そぞろ歩き」を読みました。また「西洋の詩はいつ頃日本に移されたのか」(前 『珊瑚集』 )も講義されました。『海潮音』は典雅で荘重、格調高く、非常に美しい日本語で書かれていますが、それゆえに言葉が難解であり、大岡信さんから難しすぎると批判されました。しかし、この詩集はその後の日本の詩に大きな影響を与えました。



燕の歌    ガブリエレ・ダヌンチオ

     上田敏

弥生(やよい)ついたち、はつ燕(つばめ)、
海のあなたの静けき国の
便(たより)もてきぬ、うれしき文(ふみ)を。
春のはつ花、にほひを尋(と)むる。
あゝ、よろこびのつばくらめ。
黒と白との染分縞(そめわけじま)は
春の心に舞姿。

弥生来にけり、如月(きさらぎ)は
風もろともに、けふ去りぬ。
栗鼠(りす)の毛衣(けごろも)脱ぎすてて、
綸子(りんず)羽ぶたへ今様(いまやう)に、
春の川瀬をかちわたり、
しなだるゝ枝の森わけて、
舞ひつ、歌ひつ、足速(あしばや)の
恋慕の人ぞむれ遊ぶ。
岡に摘む花、菫(すみれ)ぐさ、
草は香りぬ、君ゆゑに、
素足の「春」の君ゆゑに。

けふは野山に新妻(にひづま)の姿に通ひ、
わだつみの波は輝く阿古屋珠(あこやだま)。
あれ、藪陰(やぶかげ)の黒鶫(くろつぐみ)、
あれ、なか空(そら)に揚雲雀(あげひばり)。
つれなき風は吹きすぎて、
旧巣啣(ふるすくは)へて飛び去りぬ。
あゝ、南国のぬれつばめ、
尾羽(おば)は矢羽根(やばね)よ、鳴く音(ね)は弦(つる)を
「春」のひくおと「春」の手の。

あゝ、よろこびの美鳥(うまどり)よ、
黒と白との水干(すいかん)に、
舞の足どり教へよと、
しばし沼がむ、つばくらめ。
たぐひもあらぬ麗人(れいじん)の
イソルダ姫の物語、
飾り画(えが)けるこの殿(との)に
しばしはあれよ、つばくらめ。
かづけの花還こゝにあり、
ひとやにはあらぬ花籠を
給ふあえかの姫君は、
フランチェスカの前ならで、
まことは「春」のめがみ大神(おおきみ)。



そゞろ歩き    アルチュール・ランボオ

       永井荷風

蒼(あお)き夏の夜(よ)や
麦の香に醉(ゑ)ひ野草(のぐさ)をふみて
小みちを行かば
心はゆめみ、我足さはやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。

われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛
魂(たましひ)の底に湧出(わきいづ)るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
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by hannah5 | 2013-10-14 17:19 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX その9   


9月30日(月)は「日本の詩を読むIX」の最終講義でした。今回は前回に引き続き、ゼロ年代の詩人3人の作品が取り上げられました。ゼロ年代の詩人の中でも特にこの3人の作品は受講生たちにとって異次元のような感覚の作品だったようです。わからない部分も多い中、所々わかる部分もあるという人もあって、これまでの講義の中でももっとも白熱した意見交換がなされました。いつだったか新井豊美さんが、自分たちの時代はそれなりに先輩詩人たちの伝統を受け継いで書いたが、今の若い詩人たちはこれまでの詩の伝統を踏襲しないというようなことを言われたことがあります。新井さんはそれが良いとも悪いとも言われませんでしたが、反伝統的、反歴史的な詩の先にあるのはどういう詩なのだろうかと思いました。

読んだのは中尾太一さんの「a viaduct」と「星の家から」(どちらも長いので最初の2頁)、岸田将幸さんの「序(無方位な散骨が・・・・・)」と「歩く太陽黒点への手紙」(やはり最初の2頁のみ)、小笠原鳥類さんの「(私は絵を描いていただけだ。/船に遠隔操作の時間差爆弾を仕掛けていたのではない)」です。ここでは中尾太一さんの作品を引用しておきます。(岸田将幸さんと小笠原鳥類さんの作品はルビが多用してあって、特に小笠原さんの作品には言葉の読みではない長いルビが振ってあります。ここに作品を引用するとルビはすべて括弧内に入ってしまい作品ではなくなってしまうので、ここでは2人の作品は題名だけを挙げておきます。)


a viaduct

     中尾太一


(この浜辺で時間と風と、かけっこしたら、どっちがはやいかしら
(そのあいだを銀色の鹿が駆け抜けて、きっと彼が一番さ
(時間は風に、脚をとられるのね、風は途中で、角度を変えるのね
(銀色の鹿はそれから「光る町」になるさ

今日は鳥が見えないが、犬が川を流れている、へい、命を返してくれ返してくれ
それはボブ・ディランのなんていう曲だったろう、僕は柱になって倒れていた
それから何処までも転がっていった、柱の中には二人の子供が身体を寄せ合っている
そいつらも激しい雨を感じて泣いている、やすらかに眠っていてくれ
生まれたところから遠くに来た、生まれたところは火事になった、僕は転がっていくから
それらは小さな炎に見えて、その小さな炎は僕の子供の怒れる二つの性器になった
やすらかにずっと目を閉じていてくれ、ここはなんていう名前の町なんだい
ああこの町は僕がずっとむかし飼っていた犬のにおいがする
鳥が低く飛んでいたから僕は著しく目を悪くした、寿命星が見えなくなって、見えるのはきれいな空だった
雪が降ってきてそのうち視界は真っ白な花でいっぱいになった
金色の農耕に、雨のように述語が降る、主語は外灯の下であったかく光った君の顔だ
僕はこんなに愛していたのに、ぐるぐると転がっていくんだ

遠くへ蒲萄を収穫しに、そう聞いて、季節から季節へ、すごい雨の中だ
あいかわらず天国にふら下がっている多くの脈を数えていく、夜だった
シチューの幻を見た、古い文献によるとそれはバターと塩と、ぼろぼろの野菜で作られている
その周りで家族は幽霊の顔をして僕と同じ夢を見ている
二人の乳飲み子がもう僕を宿していたから、僕も変わるんだろう
震える夜にいつからかそんなことを考えるようになった
震えはじめたのは最近のことだ
暗闇が怖くないと感じたとき、いつから怖くなくなったのか、そんな覚えが一向にない、だからまた震えはじめたんだ
生まれ変わるとも、思いはじめた、男か女に
でもそのあいだを転がり抜けていく僕は二人の乳飲み子を抱えてあいかわらず天国の、震える蒲萄を摘んでいる
僕の靴のサイズは26センチメートルだから、ぴったりの靴を探している
26センチメートルのハイウェイだ、そして転がっている、夢を見ている

あたたかい町並みを走って、暗い住まいに入った
だからといって夜通し咳いている二人の乳飲み子が死んだらいいと思っているわけじゃない
(以下省略)
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by hannah5 | 2013-10-05 18:53 | 詩のイベント | Comments(0)