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日本の詩を読む X 「日本の訳詩集を読む その8」   


1月20日(月)は「日本の訳詩集を読む」の最終講義でした。今回はランボーの詩 le Bateau ivre のさまざまな日本語訳、日本におけるランボー受容史、intertexualité(相互テクスト性、間テクスト性、テクスト間交流)について、ランボーの失われた作品(実際に書いたが残っていない作品)などを中心に講義が進められました。ランボーの le Bateau ivre は多くの人が訳を試みており、比較してみると実に面白い発見があります。ちなみに題名だけ挙げると「酩酊船」(小林秀雄)、「酔ひどれ船」(中原中也)、「酔っぱらひの舟」(金子光晴)、「酔いどれ船」(粟津則雄)、「酔い痴れた船」(平井啓之)、「酔いどれボート」(鈴村和成)という具合で、訳された題名によってその印象はかなり違ってきます。そして最後に、ランボーの「谷間に眠る男」とそのパロデイとして野村さんが書かれた「一九九四年一月十七日」と、ランボーと中原中也の詩のレミニセンスとして野村さんが書かれた「第八番(あるいは波)」を読みました。

「日本の訳詩集を読む」として始まった今回の講義は思わぬ発見があり、また野村さん自身がどのように詩を書かれるのか詩作の現場についても垣間見ることができ、かなり有意義な講義だったと思います。現代詩の最前線を行かれる野村さんの詩は単に言葉だけの遊びに終始せず、豊富な読書量と蓄積した知識によって緻密に構築されたもので、それは建築家が詳細な設計図をもとに美しい建築物を造りあげる作業に似ています。

受講者は年配の人も多く、詩は書かなくても文学への造詣が深い人、哲学書をかなり読んでいる人、教師、銀行員、かつての舞踏家等々、人生経験の浅い若い人たちの合評会とは一味もふた味も違うこの講座はかなり面白くかつ得るものがありました。

次の講義は5月に行われる予定です。講義は金子光晴について行われます。


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谷間に眠る男

      A.ランボー

ここ、緑に蔽われた窪地では、銀のつづれを
狂おしく草の葉に引っかけながら流れは歌い、
誇らかに聳え立つ山のうえから陽は
輝く。光に泡立つ小さな谷間だ。

若い兵士が、口を開け、帽子もかぶらず、
みずみずしい青いたがらしに項を浸して
眠っている。草に埋れ、雪のしたで、雨のように
光が注ぐ緑のベッドで、色蒼ざめて横になってる。

足をあやめの茂みに入れて眠っている。ほほえむ
病気の子供のように、ほほえみながらひと眠りだ。
自然よああたかくゆすってやれ、寒そうだ

かぐわしい香りも彼の鼻の穴をふるえさせぬ。
陽の光を浴びたまま、動かぬ胸に手をのせて
眠っている。その右の脇腹には、赤い二つの穴。

                (粟津則雄訳)


一九九四年一月十七日

        野村喜和夫

そこ、緑に蔽われた窪地、
どこがどう狂っているのか、冬だというのに、
そこ、緑に蔽われた窪地、
笹や羊歯の茂みにまぎれて、
そこだけ都市のように、
古いトランクが捨てられている、
なかに人形のようなものが見える、
ズームインしてゆけ、ズームインしてゆけ、

人形ではなかった、
さながら、
断ち切られた自身の物語のゆくえに向かって、
眼は見開かれている、冬だというのに、
ノースリーブのワンピース一枚という軽装で
トランクに詰め込まれ、眼は
見開かれている、

人形ではなかった、小泉
今日子の肢体、
死体、

なにか事件にでも巻き込まれたのだろうか、
トランクの内側には、
彼女が愛用していたとおぼしい日用品がびっしり
張りつけられている、時計、
トゥシューズ、ぬいぐるみ、
まるで親しい何者かが
葬装品として飾りたてたみたいな、
写真、ほぐれた磁気テープ、押し花、
そして肢体、
小泉今日子の死体、

その青ざめた肌は笹や羊歯の茂みにつづいている、
笹や羊歯の茂みは窪地をなし、
窪地は樹海につづいている、冬だというのに、
そこ、緑に蔽われた窪地、
どこがどう狂っているのか、
そこだけ都市のように、小泉
今日子の死体、
肢体、

「こんなに幸せな気分で殺してくれた犯人を
早く捜してください」とは、
彼女からのメッセージ、眼は
見開かれている、そこだけ都市のように、
揺すってやれ、揺すってやれ、
覗く多数多様なひとよ、
彼女はまだ、断ち切られた物語のゆくえが曳く
彗星の尾のような光と交わって、
べつの結末の胚を孕もうとしているのだ、
その光に乗り移れ、
覗く多数多様なひとよ、――
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by hannah5 | 2014-01-22 18:20 | 詩のイベント | Comments(0)

日本現代詩人会ゼミナールと新年会   


1月18日(土)午後2時から、日本現代詩人会の現代詩ゼミナールと新年会がありました(会場は早稲田大学そばの早稲田奉仕園)。最近、どうも催し物には30分は遅刻するようになってしまい、今回もせっかくの八木忠英さんのお話を聞き逃しました。後半の講演は井坂洋子さんで、富岡多恵子のことや室生犀星のことなど、非常に興味深いお話を聞きました。その後の新年会は偉い詩人の方たちばかりで少々気後れしましたが、久しぶりにお会いした市川つたさんとお話ができてよかったです。(市川つたさんは、日本現代詩人会入会の時にお世話になった方です。)


【プログラム】

<ゼミナール>
   会場:早稲田奉仕園キリスト教会館
   進行:石川厚志、須永紀子
開会のことば  財部鳥子(会長)
講演者紹介   岡島弘子
講演       八木忠英「田村隆一という詩人」
詩朗読      坂田瑩子、甲田四郎、上手宰、相沢正一郎
           ――(休憩)――
講演者紹介   岡島弘子
講演        井坂洋子「詩を書く必要性」
詩朗読       野木京子、尾瀬川正明、三田洋、佐川亜紀
閉会のことば  杉本真維子

<新年会>
   会場:早稲田奉仕園リバティホール
開会のことば  北畑光男(理事長)
祝辞、乾杯、遠隔地・新入会員紹介
閉会のことば  金井雄二(副理事長)

(敬称略)
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by hannah5 | 2014-01-19 19:40 | 詩のイベント | Comments(0)

詩と思想新年会   


1月13日(月・祝日)は詩と思想の新年会でした(会場はホテルグランドパレス)。詩と思想の新年会では新人賞の発表も同時に行われます。今年の新人賞は為平澪さんの「売買」でした。

新人賞の授賞式の後の懇親会ではしばらく会えなかった方たちにお会いしたり、いつも詩集を送ってくださる方と初めてお会いするなどして楽しかったです。また、私の教会で行われたクリスマス礼拝の後のパーティで森田進さん編集の 『クリスマス詩集』 から2編朗読しましたが、その森田進さんともお話できて、これはとても嬉しかったです。

今年の新年会の参加者はいつもより多かったようで盛況でした。スピーチは比留間一成さん、鈴木東海子さんのお話が印象的でした。


【プログラム】

Ⅰ 詩と思想新人賞贈呈式

◆ 開会の言葉  一色真理
◆ 来賓挨拶    細野豊、畑光男、西岡光秋
◆ 選評       相沢史郎、高良留美子、森田進
◆ 受賞者の表彰
◆ 受賞者紹介  佐竹重生
◆ 受賞者挨拶と受賞詩の朗読  為平澪「売買」
◆ 花束贈呈

Ⅱ 懇親会

◆ 最優秀新人表彰
◆ 乾杯      菊田守
◆ 祝宴
◆ スピーチ
◆ 遠方会員紹介
◆ 社主挨拶   高木祐子
◆ 閉会の言   中村不二夫

[司会進行] 長谷川忍、伊藤浩子
(敬称略)
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by hannah5 | 2014-01-16 23:00 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む X 「日本の訳詩集を読む その7」   


1月6日(月)は「日本の訳詩集を読む」の7回目の講義でした。今回はヴァルター・ベンヤミンの 『翻訳者の使命』 (円子修平訳)から純粋言語に関するベージを読みました(p.268-279)。

ベンヤミンの文章は一回読んだだけではすぐには呑み込めず、いかにも難解な印象があります。しかし、何度か読んでみると、難解というよりベンヤミンの純粋性を追い求めるがゆえの理想主義であることが見えてきます。ベンヤミンの発想は大変面白いのですが、このようなことは起こり得ないだろうと思います。少し引用してみます。

「二つの国語の血縁性が翻訳においてあらわれるとすれば、それは模作と原作との漠然とした類似によるのとは別な遣り方で起るのである。一般に、血縁性のあるところにかならず、類似が生ずるとかぎらないことはあきらかな事実である。この関連における血縁性の概念は、この概念が狭義においても広義においても起源の同一性によっては充分に定義されえない(もちろん狭義における定義にとっては起源の概念を欠くことができないが)ことを前提として、狭義における血縁性の概念と一致する。――二つの国語の血縁性は、史的血縁性を除くとすれば、どこにその実質をもとうるのであろうか?二つの文学の類似のなかにでもその二つの文学の言葉の類似のなかにでもないことはたしかである。むしろ諸国語のあらゆる超歴史的な血縁性の実質は、個々の全体としての諸国語がひとつの、しかも同一なものをめざしている点にある。この同一なものとは、それにもかかわらず諸国語のなかの個々の国語によってではなく、それら個々の国語の互いに補完的な志向の総体によってのみ達成されうるもの、すなわち純粋言語である。諸国語のあらゆる個々の要素、つまり語、文、関連がたがいに排除し合う一方では、これらの諸国語はその志向そのものにおいて互いに補完し合うのである。言語哲学の根本法則のひとつであるこの法則を把握するためには、その志向のなかで、意味されるもの(ダス・ゲマインテ)と言い方(デイー・アールト・デス・マイネンス)とを区別しなければならない。において、たしかに意味されるものは同一であるが、その言い方は同一ではない。つまりこの言い方のなかに、この二語はドイツ人とフランス人とにとってそれぞれに異なるものを意味すること、この二語は両者にとって交換できないものであり、結局はたがいに排除し合うものであること、しかし意味されるものから見て、絶対的に考えれば、同一なものを意味することがあらわれている。言い方は、このようにこの二語においてたがいに敵対し合う一方、その言い方が属する二つの国語のなかではたがいに補完し合う。それは、二つの国語のなかで、意味されるものとの関係において補完し合うのである。つまり個々の補完されない国語においては、個々の語あるいは文においてと同様に、その国語によって意味されるものはけっして相対的な自立性に到達できないのであって、それがあのあらゆる言い方の調和のなかから純粋言語としてあらわれうるまでは、絶えざる変容のなかで把握されるほかはないのである。そのときまでそれは国語のなかに隠れ潜んでいる。しかしもし諸国語がその歴史のメシア的終末にまで生長しつくすならば、そのときこそ翻訳は諸作品の永遠の死後の生と諸国語の無限の復活とに触れて燃え上り、絶えずあらたに、諸国語のあの神聖な生長、すなわちそれら諸国語に隠されているものが啓示からどれだけ離れているか、それはこの距離の認識のなかにどのように現在するかを検証するのである。」

純粋言語が終末におけるメシア来臨によりあらわれるとするこの考え方は大変面白いと思いました。ベンヤミンはユダヤ神秘主義だそうですが、キリスト教で言う新しい天地の出現、純粋に完全なるものが神の栄光とともに永遠に続くと言われているものと非常に似ています(黙示録21, 22章)してみると、終末のメシヤ来臨(あるいは再臨)とともに言語は新しい言語、朽ちることのない純粋な言語になるということなのでしょうか。

さらにベンヤミンは翻訳者の使命についてもこう言っています。
「したがってある翻訳が、とりわけそれが成立した時代に、翻訳の言語で書かれた原作であるかのように読めるということが、その翻訳にたいする最高の賛辞なのではない。むしろ、その作品が言語完成への大いなる憧憬を語っているということこそ、逐語性によって保証される忠実の意義なのである。真の翻訳は透明であって、原作を蔽わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められた純粋言語の光を原作の上にいっそうくまなく射さしめるのである。それはなによりもまずシンタックスの置き換えにおける逐語性がなしうることである。そしてその逐語性こそは文ではなくて語が翻訳者の原要素(ウルエレメント)であることを証明するのである。なぜなら文は原作の言語のまえの壁であり、逐語性はアーケードだからである。」

ベンヤミンは最後に聖書こそ最高の翻訳物であると述べています。(ここで言う聖書はベンヤミンの場合、タルムード。)
「ヘルダーリンの翻訳は翻訳という形式の原型である。そして、ピンダロスの第三ビューティア頌歌のヘルダーリンによる翻訳とボルヒァルトによる翻訳との比較がしめすように、それとテクストの完璧な置き換えとの関係は、原型と模範との関係に等しい。しかしまさしくそれゆえに、他の翻訳にもましてそこにはあらうる翻訳の巨大な根源的な危険、すなわち、拡大され完全に支配された言語の門が不意にしまって、翻訳者を沈黙のなかに閉じこめてしまう危険が潜んでいる。ソポクレース翻訳はヘルダーリンの最後の作品であった。そのなかでは意味は深淵から深淵へと転落し、竟には言語の底なしの深みのなかに失われようとする。転落にも終止はある。しかし、そのなかでは意味が言語の奔流と啓示の奔流との分水線であることを熄めた聖書以外には、どのようなテクストも意味の転落を終止させることはできない。テクストが直後に、意味の媒介なしに、その逐語性において真の言語、真理もしくは教義に属するとき、そのテクストはあきらかに翻訳可能である。言うまでもなく、そのテクストのためにというよりは、ただたんに言語のためにである。このようなテクストにたいしては無限の信頼が翻訳の義務である。すなわち、聖書において言葉と啓示とが緊張なく合一しているように、この翻訳においては、逐語性と自由とが、緊張なく、行間翻訳のかたちで合一しなければならない。なぜならあらゆる偉大な書物はある程度、最高度には聖書が、行間にその潜勢的翻訳を含んでいるからである。聖書の行間翻訳はあらゆる翻訳の原型もしくは理想である。」

あらゆる読み物に勝る価値を聖書に置く私としては、最終行の言葉はその通りであると言いたいところですが、聖書翻訳はこのように簡単には決めることができない部分があります。なぜなら、一つ一つの原語(旧訳はヘブル語、新訳はギリシャ語)は幾通りにも解釈できることがあり、どの解釈を支持するかによって聖書の翻訳が違ってくるからです。神学者たちは今でも聖書の神学的解釈を巡って議論しており、神学的解釈にアクセスのない一般信徒は異なる解釈による翻訳を信奉することによって信仰さえも違ってきます。

時間的余裕があればベンヤミンの 『翻訳者の使命』 全部を読みたいところですが、これは将来の宿題に残しておきましょう。
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by hannah5 | 2014-01-14 20:56 | 詩のイベント | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(156)「死のフーガ」(パウル・ツェラン)   


死のフーガ


あけがたの黒いミルク僕らはそれを夕方に飲む
僕らはそれを昼に朝に飲む僕らはそれを夜中に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
僕らは宙に掘るそこなら寝るのに狭くない
一人の男が家に住むその男は蛇どもをもてあそぶその男は書く
その男は暗くなるとドイツに書く君の金色の髪のマルガレーテ
彼はそう書くそして家の前に歩み出るすると星がまた星が輝いている
  彼は口笛を吹いて自分の犬どもを呼び寄せる
彼は口笛を吹いて自分のユダヤ人どもを呼び出す地面に墓を掘らせる
彼は僕らに命令する奏でろさあダンスの曲だ

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を朝に昼に飲む僕らはお前を夕方に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む蛇どもをもてあそぶその男は書く
その男は暗くなるとドイツに書く君の金色の髪のマルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない

男はどなるもっと深くシャベルを掘れこっちの奴らそっちの奴ら
  歌え伴奏しろ
男はベルトの拳銃をつかむそれを振りまわす男の眼は青い
もっと深くシャベルを入れろこっちの奴らそっちの奴らっもっと奏でろ
  ダンスの曲だ

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を昼に朝に飲む僕らはお前を夕方に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む君の金色の髪のマルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート男は蛇どもをもてあそぶ

彼はどなるもっと甘美に死を奏でろ死はドイツから来た名手
彼はどなるもっと暗鬱にヴァイオリンを奏でろそうしたらお前らは
  煙となって空に立ち昇る
そうしたらお前らは雲の中に墓を持てるそこなら寝るのに狭くない

あけがたの黒いミルク僕らはお前を夜中に飲む
僕らはお前を昼に飲む死はドイツから来た名手
僕らはお前を夕方に朝に飲む僕らは飲むそしてまた飲む
死はドイツから来た名手彼の眼は青い
彼は鉛の弾丸(たま)を君に命中させる彼は君に狙いたがわず命中させる
一人の男が家に住む君の金色の髪マルガレーテ
彼は自分の犬を僕らにけしかける彼は僕らに空中の墓を贈る
彼は蛇どもをもてあそぶそして夢想にふける死はドイツから来た名手
君の金色の髪マルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート

(飯吉光夫編・訳 『パウル・ツェラン詩文集』 より)

ひと言
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by hannah5 | 2014-01-07 17:50 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

あけましておめでとうございます   


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去年は4月から12月にかけてとても忙しくなり、詩もどこかへ飛びがちでした。
やっと何とか追いついたのか、追いつかなかったのか、それでもなんとか元旦を迎えることができました。
ただ・・・年賀状はこれからです・・・ふぅ
年賀状を送ってくださった方、はんなからは今年は来ないのか!とあきれたりしないで、待っていてくださいませ。
松の内にはなんとかお手元に届く予定です。

でも、忙しかったけれどかなり充実していました。
今年も引き続きいろいろ書きながら進んでいけたらと思っています。
今年のどこかでまた個人詩誌を出します。

たくさんの幸せが降りますように。

はんな
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by hannah5 | 2014-01-01 22:41 | ご挨拶 | Comments(2)