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岩切正一郎さん朗読会~天童大人プロジェクト「詩人の聲」   


喜和堂の同人岩切正一郎さんが、詩集 『視草の襞』 (らんか社 2014年7月22日刊行)の出版を記念して、7月29日(火)、東京平和教会で朗読会を開かれました。朗読会は詩集全編を読むという壮大なもので、フランス文学に造詣の深い岩切さん独特の詩的スタイルが縦横に溢れている朗読会でした。岩切さんの詩は単に耳で聴くだけでなく、目で文字を追いながら聴くとより一層詩の深みを味わうことができるように思いました。文学の香りがする岩切さんの詩は、いつもしいんとした静かな気持ちで読ませていただいています。

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岩切正一郎さんのHP
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by hannah5 | 2014-07-31 16:20 | 詩のイベント | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(159)「アンデス高原に置き忘れたリュック」(細野 豊)   


アンデス高原に置き忘れたリュック


アンデス高原地帯にある
標高三、八一五米の湖畔を走り抜けて
希薄な空気の中を長距離バスはラパス市へ向かっている

黄泉の国から来たので
車内は薄明るく湖からの潮の匂いを孕み
男の乗客は異国からの闖入者であるおれだけで
黒い山高帽を被った*アイマラの女たちが
影絵のように みんな赤子をひとりずつ
背負って座っている

ターミナルに着くころ しらじらと夜が明け
燃焼したガソリンの芳香が鼻をくすぐる

ボリビアのラパス市に地下鉄はないはずなのに
おれは駅前広場を通り抜けて乗り場へ急ぐ
―メキシコシティと混同しているな―
それでもここはラパスの町なのだ

町外れの切り立った崖の縁にある
平屋の建物はカフェテリアで
ここでも赤子を背負ったアイマラの女たちが
俯いて朝食を食べている
誰もひとこともしゃべらない

(情景はモノクロの映画のようで
崖下を見下ろすと身が竦む)

おれも席に着きリュックを下ろしてコカ茶を飲み
だんだん気持ちが落ち着いていく
居眠りしたかと思う間もなく
日本のわが家の布団の中で目が覚め
あのカフェテリアにリュックを置き忘れたことに気づく

あの中にはパスポートや財布ばかりでなく
ただ一度かぎりの大切な記憶も入っているのだ
取りに引き返そうとするが
どうしても地下鉄の入口が分からず途方に暮れている

* アイマラ=ボリビア、ペルーなどに住む先住民族で、ケチュアと並ぶ二大民族のひとつ。11世紀頃ころケチュアの支配下に入り、居住地域はインカ帝国領となったが、その後スペイン人に征服されてからも独自の文化を守りつづけている。人口約三百万人。

(細野豊詩集 『女乗りの自転車と黒い診察鞄』 より)

ひと言
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by hannah5 | 2014-07-28 01:46 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

野川朗読会5   


7月21日(月)(海の日)に5回目の野川朗読会がありました(於成城ホール)。今回のひと言テーマは「魔法の言葉」で、朗読の前に出演者がそれぞれ思い入れのある魔法の言葉を披露しました。

野川朗読会は毎回「そうかわせみ、」のメンバー(一色真理さん、岡島弘子さん、伊藤浩子さん、相沢正一郎さん)を中心に、さまざまなゲストが参加して行われており、コンパクトながら中身の濃い構成で、なかなか聴かせる朗読会に仕上がっていると思います。(相沢正一郎さんは今回は不参加でした。)

恒例の長野まゆみさんと田野倉康一さんの対話は、今回は長野まゆみさんの先祖が海賊だったという話を中心に進められました。先祖が海賊なんてめったに聞く話ではないので、興味深く聴きました。


【プログラム】

第一部

<朗読>
伊藤浩子、小笠原鳥類、渡辺めぐみ、新井高子、そらしといろ、野村喜和夫

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朗読するそらしといろさん

<対話>
長野まゆみ x 田野倉康一

第二部

<朗読>
長野まゆみ、田野倉康一、樋口良澄、北爪満喜、一色真理、岡島弘子
(敬称略)
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by hannah5 | 2014-07-22 17:00 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む XI 「金子光晴の詩の世界 その5」   


7月14日(月)は金子光晴の詩の世界の最終講義でした。散文と詩が交互に出てくる「人間の悲劇」(読売文学賞)、換喩によって書かれた詩「愛情69」、光晴の実存の底を書いた散文「詩人」を中心に講義が進められました。どの作品も光晴の人生観や人となりなどが色濃く反映されています。「人間の悲劇」は戦後の第一作(戦後になって初めて書いた)で、戦後の社会や風俗に対する社会批判・文明批判が書かれています。大河内玲子との出会い、右翼からの攻撃をかわすためにエロ詩人を装っていたこと、換喩、隠喩、提喩など比喩の話しなど、盛り沢山の内容でした。

次の講義は12月に入ってから、西脇順三郎の予定です。



愛情69

 僕の指先がひろひあげたのは
地面のうへの
まがりくねつた一本の川筋。

 外輪蒸気船が遡る
ミシシッピィのやうに
冒險の魅力にみちた
その川すぢを
僕の目が 辿る。

 落毛よ。季節をよそに
人のしらぬひまに
ふるひ落された葉のやうに
そつと、君からはなれたもの、

 皺寄つたシーツの大雪原に
ゆきくれながら、僕があつめる
もとにはかへすよすがのない
その一すぢを
その二すぢを、

 ふきちらすにはしのびないのだ。
僕らが、どんなにいのちをかけて
愛しあつたか、しつてゐるのは
この髯文字のほかには、ゐない。

 必死に抱きあつたままのふたりが
うへになり、したになり、ころがつて
はてしもしらず辷りこんでいつた傾斜を、そのゆくはてを
落毛が、はなれて眺めてゐた。

 やがてはほどかねばならぬ手や、足が
絲すぢほどのすきまもあらせじと、抱きしめてみても
なほはなればなれなこころゆゑに
一層はげしく抱かねばならなかつた、その顚末を。

 落雷で崩れた客觀のやうに、
虚空に消えのこる、僕らのむなしい像。
僕も
君も
たがひに追ひ、もつれるやうにして、ゐなくなつたあとで、

 落毛よ、君からぬけ落ちたばかりに
君の人生よりも、はるばるとあとまで生きながらへるであらう。それは
しをりにしてはさんで、僕が忘れたままの
黙示録のなかごろの頁のかげに。
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by hannah5 | 2014-07-17 18:11 | 詩のイベント | Comments(0)

Uña Ramos   


Mariano Uña Ramos (27 May 1933 – 23 May 2014) was an Argentinian musician.
Uña Ramos was born in Humahuaca, Argentina, near the border with Bolivia. He was a renowned Andean musician and composer, a virtuoso of the Quena (Kena), the end blown bamboo flute of the Andean Altiplano. He died in 2014, four days before his 81st birthday.

マリアーノ・ウニャ・ラモス(1933.5.27-2014.5.23)
ボリビアの国境に近いアルゼンチンのウマウアカに生まれる。アンデス音楽のミュージシャン、作曲家、ケーナ奏者として活躍。2014年、5月23日、81歳の誕生日の4日前に亡くなる。

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Liseron (リスロン)


Brief Encounter

 学生の頃、※ウニャ・ラモスのケーナが好きで毎日ウニャ・ラモスばかり聴いていたことがある。自分でもケーナを一本買い、ウニャ・ラモス気取りで夕方になるとケーナを吹いた。吹いたと言っても正式に習ったわけではなく、うろ覚えの「灰色の瞳」と「コンドルは飛んで行く」を吹ける所だけ繰り返し吹いた。
 ウニャ・ラモスに一度だけ会ったことがある。今から二十年ほど前、パリ旅行中のことだった。ウニャ・ラモスがパリに住んでいると聞いていた私は、会うフランス人ごとに彼の居場所は知らないかと聞いてみた。しかし誰に聞いても知らないと言う。私はひたすらウニャ・ラモスに会いたい、ウニャ・ラモスに会いたいと思い続けた。
 ある日、フォンテーヌブローに行こうと思ってメトロに乗っていた時のこと、一人の長髪の褐色の肌の男が途中駅から乗り込んできて私の隣に座った。私は思わず、あ、と思った。意を決して” ¿Es usted Uña Ramos?” (あなたはウニャ・ラモスさんですか?)と聞いてみた。すると”Si”(はい)と言うではないか。第二外国語でスペイン語を取ったとはいえ出てきたのはそれだけで、フランス語も喋れなかった私は身振り手振りでなんとか意思疎通を図ろうとした。彼はこれからどこかへ行くところだったようで、ついてきますかというようなことを聞いた。”No, gracias”(いいえ、ありがとう。)彼について行く勇気がどうしても出なかったのだ。ウニャ・ラモスは別れ際に私の手の甲にキスをしてくれた。あの時フォンテーヌブローなんぞ放っておいて、彼について行けば面白いことに出会えただろうに、と今になって思う。
※ウニャ・ラモス:本名マリアーノ・ウニャ・ラモス(1993-)。アルゼンチンの音楽家、作曲家、ケーナ奏者。代表作に 『Una flauta en la noche』、『Eve』、『Puente de madera』 (シャルル・クロス・アカデミー賞受賞)、『La princes del mar』 などがある。(「喜和堂 No. 2」「めくるめく」より)
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by hannah5 | 2014-07-15 19:57 | Music | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(158)~ せんのえほん   


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あれはどこだったかな。
たしかに知っていたはずなんだけど、記憶のすみの方に置き去りにされたままになっていて、
ふだん思い出すこともないのに、何かの拍子に、
あ、これいつかのあれ、知ってる、って風がさっと通り過ぎるみたいに思うあれ。
cocaさんの線画にはそんな感じがあって、初めてなのに初めてじゃないみたいな出会いでした。
cocaさん

そして、その絵に添えられたりりさんのことばは、今まで見たりりさんのことばの中で一番自由で、
詩の真髄みたいなことばが並べられていて、
私の心の中でことばがふつ、ふつ、ふつ、と沸き立ってくるようでした。
りりさん

宝石箱のような本です。

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線の絵本
2014年6月1日初版発行
中村梨々さんとcocaさん
発行所 七月堂
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by hannah5 | 2014-07-07 20:27 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

日本の詩を読む XI 「金子光晴の詩の世界 その4」   


金子光晴の詩の世界の4回目の講義が6月30日に行われました。今回は「寂しさの歌」を中心に、戦争への抵抗詩人としての側面を見ました。また「寂しさ」に関連して、西脇順三郎の「旅人かへらず」から、西脇の淋しさとも比較しました。金子光晴も西脇順三郎も積極的に戦争協力をしなかった人たちですが、多くの詩人たちが戦争協力へと転向していった中で、孤独から来る寂しさ(金子)/淋しさ(西脇)には共通したものがあったようです。ただし、両者のさびしさはその質がかなり違い、比較はかなり参考になりました。


寂しさの歌

        國家はすべての冷酷な怪物のうち、もつとも冷酷なものとおもはれる。
        それは冷たい顔で欺く。欺瞞は、その口から這ひ出る。
        「我國家は民衆である」と。
                                        ニーチェ・ツアラトウストラはかく語る。

    一

どつからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

絲のやうにほそぼそしたこゝろからか。
そのこゝろをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。

月光。ほのかな障子明りからか。
ほね立つた疊を走る枯葉からか。

その寂しさは、僕らのせすぢに這ひこみ、
しつ氣や、かびのやうにしらないまに、
心をくさらせ、膚にしみ出してくる。

金でうられ、金でかはれる女の寂しさだ。
がつがつしたそだちの
みなしごの寂しさだ。

それがみすぎだとおもつてるやつの、
おのれをもたない、形代(かたしろ)だけがゆれうごいてゐる寂しさだ。
もとより人は土器(かはらけ)だ、といふ。

十粒ばかりの洗米をのせた皿。
鼠よもぎのあひだに
捨てられた缺皿。

寂しさは、そのへんから立ちのぼる。
「無」にかへる生の傍らから、
うらばかりよむ習ひの
さぐりあふこゝろとこゝろから。

ふるぼけて黄ろくなつたものから、褪せゆくものから、
たとへば、氣むづかしい姑めいた家憲から、
すこしづつ、すこしづつ、
寂しさは目に見えずひろがる。
襖や壁の
雨もりのやうに。
涙じみのやうに。

寂しさは、目をしばしばやらせる落葉焚くけぶり。
ひそひそと流れる水のながれ。
らくばくとしてゆく季節のうつりかはり、枝のさゆらぎ
石の言葉、老けゆく草の穂。すぎゆくすべてだ。

しらかれた萱管の
丈なす群をおし倒して、
寂しさは旅立つ。
つめたい落日の
鰯雲。

寂しさは、今夜の宿をもとめて、
とぼとぼとあるく。

夜もすがら山鳴りをきゝつつ、
ひとり、肘を枕にして、
地酒の徳利をふる音に、ふと、
別れてきた子の泣聲をきく。

    二

寂しさに蔽はれたこの國土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峽間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしてゐる。

あとから、あとから湧きあがり、閉す雲煙とともに、
この國では、
さびしさ丈けがいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。

この寂しさのはてに僕らがながめる。桔梗紫苑。
こぼれかかる露もろとも、しだれかかり、手をるがまゝな女たち。
あきらめのはてに咲く日蔭草。

口紅にのこるにがさ、粉黛のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。
衰へはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念佛を。
…..鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。
この寂しさをふしづけた「吉原筏。」

この寂しさを象眼した百目砲(づつ)。

東も西も海で圍まれて、這ひ出すすきもないこの國の人たちは、自らをとぢこめ、
この國こそまづ朝日のさす國と、信じこんだ。

爪楊子をけづるやうに、細々と良心をとがらせて、
しなやかな假名文字につゞるもののあはれ。寂しさに千度洗はれて、
目もあざやかな歌枕。

象潟(きさかた)や鳰(にほ)の海。
羽箒でゑがいた
志賀のさゞなみ。

鳥海、羽黒の
雲につき入る峯々、

錫杖のあとに湧出た奇瑞の湯。

遠山がすみ、山ざくら、蒔繪螺鈿の秋の蟲づくし。
この國にみだれ咲く花の友禪もやう。
うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠歎をこめて、
いまになほ、自然の寂しさを、詩に小説に書きつゞる人人。
ほんたうに君の言ふとほり、寂しさこそこの國土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい傳統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな國に僕がうまれあはせたことだ。
この國で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗前に坐ることだ。

そして、やがて老、祖先からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
樒(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。


そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恆の末の末までも寂しがつゞき、
地のそこ、海のまはり、列島のはてからはてかけて、
十重に二十重に雲霧をこめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐れに、
いつもみづみづしい山や水の傷心をおもふとき、
僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。

僕はその寂しさを、決して、この國のふるめかしい風物のなかからひろひ出したのではない。
洋服をきて、巻きたばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそつくり同じやうにながめるのだ。
よりあひの席でも喫茶店でも、友と話してゐるときでも斷髪の小娘とをどりながらでも、
あの寂しさが人人のからだから濕氣のやうに大きくしみだし、人人のうしろに影をひき、
さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、永恆から永恆へ、ながれはしるのをきいた。

    三

かつてあの寂しさを輕蔑し、毛嫌ひしながらも僕は、わが身の一部としてひそかに執着してゐた。
潮夾節を。うらぶれたながしの水調子を。
廓うらのそばあんどんと、しつぽくの湯氣を。

立廻り、ゐなか役者の狂信徒に似た吊上った眼つき。

萬人が戻つてくる茶漬の味、風流。神信心。
どの家にもある糞壺のにほひをつけた人たちが、僕のまはりをゆきかうてゐる。
その人達にとつて、どうせ僕も一人なのだが。

僕の坐るむかうの椅子で、珈琲を前に、
僕のよんでる同じ夕刊をその人たちもよむ。
小學校では、おなじ字を敎はった。僕らは互ひに日本人だつたので、
日本人であるより幸はないと敎へられた。
(それは結構なことだ。が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへに同じやうに、萬世一系の天皇がいます。

あゝ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互ひに似てゐることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。

    四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戰爭をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあつて、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出發したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、學生も、
風にそよぐ民くさになつて。

誰も彼も、區別はない。死ねばいゝと敎へられたのだ。

ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまひ酒で醉つてすごさうとする。
エゴイズムと、愛情の淺さ。
黙々として忍び、乞食のやうに、
つながつて配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになつてゆく人人の表情から
國をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまつた、ふかい寂しさを僕はまだ、生れてからみたことはなかつたのだ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反對に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。
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by hannah5 | 2014-07-04 22:56 | 詩のイベント | Comments(0)