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私の好きな詩・言葉(161)   


真理


真理について
私に聞きたいのですか?

そうですね。
答のない難問みたいなものかな。
問いかけてもひとかけらも返事は返ってこないから。

朝、幼稚園に連れて行くでしょ。すると
大理石の下駄箱に手を添えたまま
帰宅の時間まで一歩も動こうとしないんです。

何度も私は問いかけました。
答えが欲しかったから。

何故そうしているの?
あなたは誰なの?
私は何者?

でもね。
裏返しの便所のスリッパみたいに
沈黙が床に落ちているだけ。
そういうものなのかしら?
真理って……

ズボンの膝が破れた男の子がやってきて
唾にまみれた口で
真理にいきなり噛みついたことがあるわ。
血のにじむ歯形がぐんぐん頬に浮かび上がりました。
でも、それは答えではなかったの。
真理は悲鳴も泣き声もついに上げることはなかった。
「お母さん!」と呼んでくれることもなかった。

それが真理なのよ。

真理はいつも私の前にいました。
毎日、同じ時間、同じ姿勢、同じ顔をして。
誰もそこにはいないかのように。
私に見えていないかのように。
空気みたいにいました。
ずっといました。
いつのまにか、私が存在を忘れてしまうほどに。

そして、気づいたときには
本当にいなくなっていたの。

真理なのよ。
それが。

     *

六十年が過ぎました。
早いものね。
あなた。
あなたは今日
杉の子幼稚園に行ったのですね。
真理のいた場所に。

大理石の下駄箱は
まだそこにあったのですね。
あの日のままに。
よかった。
歳月がすべてを灰にしたのではなかったのだわ。
けれど

あなたはまだ私に聞きたいのですか?
窯の中でごうごうと燃えている私に。

そうです。
私はあのとき
真理がわかりませんでした。
あれからずっと。
そして今も
見失ったままです。

わかるはずがないわ。
あなた。
あなたにもけっして!

そうよ。
それが真理なのだから。

       (一色真理詩集 『エヴァ』 より)

ひと言
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by hannah5 | 2014-09-25 21:12 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)