<   2015年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧   

日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第6回)   


6月29日(月)、「石原吉郎を読む」の6回目の講義が行われました。今回のテーマは「石原吉郎と現代詩」で、石原吉郎の現代詩への登場を、デビュー作となった「夜の招待」を中心に講義が進めされました。「夜の招待」は、投稿雑誌「文章倶楽部」(現代詩手帖の前身)に投稿した作品で、特選に選ばれたことがきっかけとなって注目されるようになりました。その時の選者は鮎川信夫と谷川俊太郎だったそうです。その他、石原吉郎と鮎川信夫との比較、石原吉郎と吉岡実との比較、石原吉郎の粕谷栄市への影響なども考察の対象に講義が行われました。



夜の招待


窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふぁんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾(しりお)をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる


(石原吉郎詩集 『サンチョ・パンサの帰郷』 より)
[PR]

by hannah5 | 2015-06-30 20:41 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第5回)   


6月22日(月)、「石原吉郎を読む」の5回目の講義がありました。今回のテーマは「石原吉郎とパウル・ツェラン」で、富岡悦子さんの 『パウル・ツェランと石原吉郎』 (みすず書房)における石原吉郎とパウル・ツェランの比較を参考にしながら講義が進められました。両者の類似点と相違点との比較はなかなか面白かったですが、ユダヤ人という民族全体の抹殺(ツェラン)と一個人のシベリヤ抑留による強制労働(石原)との比較は果たして同一線上で行えるものなのか、はなはだ疑問であると思いました。

読んだ作品はパウル・ツェランの「頌歌」と「あらかじめはたらきかけることをやめよ」、石原吉郎の「花であること」と「死」、斉藤環の散文「パウル・ツェラン 『パウル・ツェラン詩集』 」(一部)でした。




頌歌

  パウル・ツェラン


誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
誰でもないものがぼくらの塵にまじないをかける。
誰でもないものが。

たたえられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために
ぼくらは花咲こうとおもう。
あなたに
むけて。

ひとつの無で
ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
ありつづけるだろう、花咲きながら――
無の、誰でもないものの
薔薇。

魂のあかるみを帯びた
花柱、
天の荒漠を帯びた花粉、
棘のうえで、
おおそのうえでぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
花冠。





花であること

  石原吉郎


花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
[PR]

by hannah5 | 2015-06-26 00:47 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第4回)   


「石原吉郎を読む」の4回目の講義が6月15日に行われました。今回は石原吉郎にとっての言語を中心に講義が進められました。

石原吉郎は強制収容所にいる間に一時失語症に陥り、後にそのことを『日常への強制』の中で「失語と沈黙」題して書いています。石原吉郎にとっての失語とは何か、沈黙とはどういうものか、少し引用してみます。

「強制収容所のこのような日常のなかで、いわば、<平均化>ともいうべき過程が、一種の法則性をもって容赦なく進行する。私たちはほとんどおなじかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動しはじめる。こうして私たちが、いまや単独な存在であることを否応なしに断念させられ、およそプライバシーというべきものが、私たちのあいだから完全に姿を消す瞬間から、私たちにとってコミュニケーションはその意味をうしなう。
 はり渡した板にまるい穴を穿っただけの、定員三十名ほどにもおよぶ収容所の便所は、毎日一定の時刻に、しゃがんだ一人一人の前に長い行列ができる。便所でさえも完全に公開された場所である運命をのがれえない環境では、もはやプライバシーなぞ存在する余地はない。私たちはおたがいにとって、要するに「わかり切った」存在であり、いつその位置をとりかえても、混乱なぞ起りようもなかったのである。私たちの収容所では囚人番号は使用していなかったが、しかし徐々に風化されつつあった私たちの姓名は、いつでも番号に置きかえうる状態にあった。・・・(中略)
 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。・・・(中略)
 失語とは、いわば仮死である。それはその状態なりに、自然であるともいえる。そして、それが自然であるところに、仮死のほんとうのおそろしさがある。禿鷹も、禿鷹についばまれる死体も、そのかぎりでは自然なのだ。」

 「しかし囚人は、本能的に未知な環境を恐れる。既知の悲惨は、それが既知であるというだけで、どのような未知の悲惨よりも、まだしも耐えやすく思われるのである。私自身、環境をかわるごとに、状況は確実に悪化した。こんどかわれば、さらに悪くなるという先入主のようなものが、かたく私たちのあいだに根をおろしていた。おそらくそうした不安がこの若いロシヤ人を、発作的に警戒区域外へ駆り立てたのであろう。
 彼は不幸にして、監視兵の視野を横断する方向をとらず、一直線に遠ざかる方向をとったため、おちついて照準をあわせた監視兵によって一発で射殺された。世界が動顚するような一瞬ののちの、すでに死体となって彼は投げ出されていた。かけ寄った監視兵が、なれた動作で、爪さきで死体を仰向けにした。・・・(中略)
 うずくまった私のなかで、あるはげしいものが一挙に棒立ちになった。そのときの私の脳裡に灼きついたのは、そのときにかぎり死体ではなかった。そのとき私を動顚させたのは、監視兵がしっかりと狙って射ったただ一発の銃声である。銃声が恐怖となるのは、ただ一発にかぎられる。とっさのまに監視兵をとらえた殺意は、過不足なくその一発にこめられていた。一定の制限のもとに殺戮をゆるされたものの圧しころした意志が、その一発に集中していた。監視兵のこの殺意は、あきらかに私の内部に反応をひきおこした。私は私の内部で、出口を求めていっせいにせめぎあう、言葉にならない言葉に不意につきとばされた。それはあきらかに言葉であった。言葉は復活するやいなや、厚い手のひらで出口をふさがれた。一切の言葉を封じられたままで、私は私のなかのなにかを、おのれの意思で担いなおした。一瞬の沈黙のなかで、なにかが圧しころされ、なにかが掘りおこされた。私にとってそれは、まったく予期しなかったことであった。
 この瞬間の衝撃は、帰国後もしばしば私をおびやかした。言葉をとりもどすということは、主体にその用意がないばあい、主体そのものの均衡を根底からゆりうごかす。そしてこの均衡こそは、囚人が失語を代償として、かろうじて獲得したものである。言葉は、言葉につらなる一切の眷族をひきつれて、もっとも望ましくないときに、不意をついて訪れる暴君である。」

そして、石原は「詩の定義」と題した短いエッセイの中で次のように述べている。
 「ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。」

石原吉郎の詩は逆説を用いたものが多いが、これらの文章を読んだ時、私は初めてその背景にあるものが何なのかを理解した。石原の詩の活動のすべてはこの逆説から始まったと言って過言ではないと思う。

今回読んだ作品は「酒がのみたい夜」と「自転車に乗るクラリモンド」でした。


酒がのみたい夜


酒がのみたい夜は
酒だけでない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕ぐれとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒がのみたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を掘りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ

(石原吉郎詩集 『サンチョ・パンサの帰郷』 より)
[PR]

by hannah5 | 2015-06-20 23:05 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩祭2015 ― いま同じ時代を生きて詩を語る ―   


6月7日、日本現代詩人会の主催で「いま同じ時代を生きて詩を語る」と題して、日本の詩祭2015が行われました(於ホテル メトロポリタン エドモント)。第一部ではH氏賞と現代詩人賞の選考経過報告と受賞、先達詩人の顕彰がありました。今年のH氏賞は岡本啓さんの『グラフィティ』、現代詩人賞は八木忠栄さんの『雪、おんおん』が受賞しました。また、石川逸子さん、岡崎純さん、新藤涼子さん、安水稔和さんが先達詩人として顕彰されました。第二部では芥川賞作家、パンクロック歌手、俳優、朔太郎賞受賞の詩人という多彩な顔をもつ町田康さんの対談と、朗読隊による中也の詩の朗読、中也の詩に町田康さんが言葉を寄せる(町田さんはこれを 『残響』 と名付けられています)などが行われました。町田康さんの自然体のトーク、中也の詩にコラボした言葉など、町田康さんを囲んでの第二部は非常に面白かったです。

【プログラム】

第一部

・ 開会のことば                   北畑光男

・ 第65回H氏賞贈呈
    選考経過報告                廿楽順治
    H氏賞贈呈                  財部鳥子
    受賞詩集『グラフィティ』について     石田瑞穂
    受賞のことば                 岡本啓

・ 第33回現代詩人賞贈呈
    選考経過報告                八木幹夫
    現代詩人賞贈呈               財部鳥子
    受賞詩集『雪、おんおん』について    中上哲夫
    受賞のことば                 八木忠栄

b0000924_175918.jpg
受賞のことばを述べる八木忠栄さん

・ 先達詩人の顕彰 
    先達詩人への敬意・記念品贈呈     財部鳥子
    先達詩人のことば              石川逸子、岡崎純、新藤涼子、安水稔和

・ 詩の朗読
    H氏賞受賞詩集『グラフィティ』      岡本啓
    現代詩人賞受賞詩集『雪、おんおん』 八木忠栄

b0000924_1834349.jpg
受賞詩集を朗読する岡本啓さん


第二部

・ 対談   町田康「現代詩をぶっとばせ!」(聞き手 山田兼士)

・ 朗読会  町田康、朗読隊

b0000924_1863335.jpg
中也の詩に言葉を寄せる町田康さん(左は朗読隊の峯澤典子さん)

・ 閉会のことば                   新延拳

総合司会新延拳
司会下川敬明、永方ゆか

(敬称略)

残響
[PR]

by hannah5 | 2015-06-10 17:54 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む XIII ~石原吉郎を読む(第3回)   


「石原吉郎を読む」の3回目の講義が6月1日に行われました。今回の講義は実存主義と石原吉郎における実存主義などの話を中心に進められました。石原吉郎の詩「条件」、「事実」、「脱走」の他に、現代詩手帖に連載された野村喜和夫さんの「哲学の骨、詩の肉」の「ランボーとil y a と他者と」(一部)、石原吉郎のエッセイ「日常への強制」(一部)も併せて読みました。ハイデガーの実存主義、ハイデガーから影響を受けたというレヴィナスの根本主義、il y a における非人称、ハイデガーの存在と存在者の関係、実詞化などが講義に盛り込まれました。



脱走
  ―― 一九五〇年ザバイカルの徒刑地で


そのとき 銃声がきこえ
日まわりはふりかえって
われらを見た
ふりあげた鈍器の下のような
不敵な静寂のなかで
あまりにも唐突に
世界が深くなったのだ
見たものは 見たといえ
われらがうずくまる
まぎれもないそのあいだから
火のような足あとが南へ奔(はし)り
力つきたところに
すでに他の男が立っている
あざやかな悔恨のような
ザバイカルの八月の砂地
爪先のめりの郷愁は
待伏せたように薙ぎたおされ
沈黙は いきなり
向きあわせた僧院のようだ
われらは一瞬腰を浮かせ
われらは一瞬顔を伏せる
射ちおとされたのはウクライナの夢か
コーカサスの賭か
すでに銃口は地へ向けられ
ただそれだけのことのように
腕をあげて 彼は
時刻を見た
驢馬の死産を見守(まも)る
商人たちの真昼
砂と蟻とをつかみそこねた掌(て)で
われらは その口を
けたたましくおおう
あからさまに問え 手の甲は
踏まれるためにあるのか
黒い踵が 容赦なく
いま踏んで通る
服従せよ
まだらな犬を打ちすえるように
われらは怒りを打ちすえる
われらはいま了解する
そうしてわれらは承認する
われらはきっぱりと服従する
激動のあとのあつい舌を
いまも垂らした銃口の前で。
まあたらしく刈りとられた
不毛の勇気のむこう側
一瞬にしていまはとおい
ウクライナよ
コーカサスよ
ずしりとはだかった長靴(ちょうか)のあいだへ
かがやく無垢の金貨を投げ
われらは いま
その肘をからめあう
ついにおわりのない
服従の鎖のように
  注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走をふせぐために、しばしば五列にスクラムを組まされる。

(石原吉郎詩集 『サンチョ・パンサの帰郷』 より)




石原吉郎(いしはらよしろう)

1915年 静岡県伊豆に生まれる
1938年 東京外語卒
1939年 応召
1945年 ソ連に抑留される
1949年 重労働25年の判決を受ける
1953年 特赦により帰還、帰還直後から詩作を始める
1955年 詩誌「ロシナンテ」創刊
1964年 詩集 『サンチョ・パンサの帰郷』 により第14回H氏賞受賞
詩集 『水準原点』 『禮節』 『北條』 『足利』 『満月をしも』、評論集 『望郷と海』 『海を流れる河』 『断念の海から』、歌集 『北鎌倉』 などがある。
(『石原吉郎詩集』(現代詩文庫)よりコピー抜粋)
[PR]

by hannah5 | 2015-06-03 16:58 | 詩のイベント | Comments(0)