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日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第9回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の9回目の講義は吉増剛造についてで、講義のタイトルは「吉増剛造あるいは未聞の翻訳空間」でした(3/14)。吉増剛造に感化されたり影響を受けた人は多いと思いますが、私自身は食わず嫌いというか、読んでも頭の上を素通りして行く感じがしてふだん彼の詩は読まないのですが、学生時代、吉増剛造に憧れていたという野村喜和夫さんの講義は説得力があって、私なりに楽しめました。吉増剛造の手書きの原稿は細かい書き込みがたくさんあってわかりづらいのですが(あのテクストから印刷するのはかなり大変な作業だろうと思います)、実際に彼が朗読するのを聴いてみると思ったほど難解ではない印象があります。教室で読んだ詩は「赤壁に入って行った」(『オシリス、石ノ神』)、「光の落葉」(『The Other Voice』)、野村さんの「小言海」(『難解な自転車』)と吉増剛造論を述べた「ニューオルフェウス計画」(『オルフェウス的主題』)でした。


赤壁に入って行った

      吉増剛造

 炎暑八月、私の眼に赤壁が映った。川のむこう、鉄橋はかかっていない。総重量噸はどうやってはかるのか。私の、視線を吊り上げはじめた。川のむこう、聳えている赤壁に、その内奥に彫刻物が忍び込んで、はっしている光がみえる。
 光がみえる。
 山中の川幅は、五十メーター位、川床は岸から下って三メートル?
 私は測量士、川筋の、私は測量士だ。
 川の川底を大水が通って行ったのはきのうのよるのこと? そのまたきのうのあさのこと? 下流に向って靡いている、土砂にまみれてひかる草木に話しかけた。
 私、交換手? 私は交換手?
 大蛇のように怒って? 豊かに? きのうのよるなのか、きのうのあさなのか、通って行った、大水の背丈を測ると、貴女は、一メートル七十五センチだ。熱い息吹きを感ずる、背に脚に股に胸に背筋に……抜き去るように、身体を吊り上げて、岸に身体を揚げて行った。
 私は、河川の遊泳監視員? 遊泳監視員? 判らない。
 脇に、鮎供養塔が立っていて、その聲におどろく。
 そばに行くと、私達の聲も囁くように優しくなる。そのそばに行くと、細かくきらめく小魚や魚の聲が聞こえて来た。私達は清流のイメージを、しばらくさわって、つかまえていた。
 砂の物? 砂の物?
 そのとき、低くなり小山になり、小聲になって、鮎や鮎の頬に指をつけていた、砂になった、私は流れた?
 そして、ふりかえると、対岸の大赤壁は、一メートルか二メートル、こちらの岸へ傾きかけ、石火、炎の貌――、その奥に宇宙も幾つか、彗星も、熊も、そして、私の掌にいたバードストーンも、赤壁の空を跳んでいた。

 古座上流、一枚の大きな壁のたつ不思議なところ。

 こさかな、こさか、
 な、そここさかな。

 八月十一日
 赤壁は私に入って行った。



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by hannah5 | 2016-03-22 19:37 | 詩のイベント | Comments(0)

私の好きな詩・言葉(170)   


手術台にて


朝から手術着に着替えて 待ちくたびれて 夕方
半分寝ているところに 運搬車が来た
膀胱がんの手術だ
広々とした空洞の中に 白装束の人間が三人
それぞれが手に何か持って待ち構えていた
腹部の真ん中にカーテンが下ろされた

 麻酔医のなんとかです 半身麻酔です
 背中が少しチクリとします だんだん熱くなります
 それから何にも感じられなくなります

下半身が外されたみたい
少し離れたところで 女医さんらしい人が
コンピューター見ながら何本ものパイプを
入れたり 出したりしている

あの下半身は とても迷惑なやつだった
「ついでだから 取り換えられませんかね」
そばにいた男が応じた
「交換ですか そういう方が結構いらっしゃいますよ」
若い背広の男がパソコン持ってすぐに来た
「毎度有難う御座います カタログです ご希望は
 スタイルですか カラーですか それとも機能ですか」
「それは機能ですよ」
「じゃー馬力の強いのにしますか」
「いやー馬力より燃費だね」
「お客さんズバリです 今ならいい出物がありますよ」
「で もしかして わたしの 下取りになりますか」
「はい で何年物でしたっけ あっ 結構年代もののようですけど
 それはそれで 値打ちがありまして 大事にお使いのようですから」

そのとき突然 ライトが明るくなった
「終わりましたよ 成功です」
弾んだソプラノで カーテンが開いた
女優さんみたいな 若い女医さん
「これが 膀胱がんです 全部取りました」
ガラスの瓶にイカの皮みたいな白と黒の ヒラヒラ
どこも切らないで内臓手術なんて 凄い
コンピューター男は消えている
ガシャン
下半身が繋がったのかな
恐る恐る触って 驚いた
元からあるはずの脚の下に
見覚えのない冷たい脚が 真っ直ぐに二本付いている
合計四本になってるみたい
あのコンピューター男 慌てて下取りしないで逃げちゃったんだ
身元の分からない変な あし 余分に貰ってどうする

「先生 あし が四本あるみたい」
「ええっ ああ うん それは麻酔のせいです 脳が手術前の脚を覚え
 ているのよ 三時間したら麻酔は消えます 脚は二本です」

マスイ か
運搬車が動き始めた
とても幸せな感じに浸って

(高平よしあき詩集 『わたくしたちの 列車』 より)


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ひと言
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by hannah5 | 2016-03-11 23:36 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第8回)   


8回目の「詩的アヴァンギャルドの100年」は谷川俊太郎を中心に講義が行われました(3/7)。タイトルは「谷川俊太郎あるいは日本語のレッスン」。詩的アヴァンギャルドの詩人の中に谷川俊太郎が入っていたので、平易な日本語で書かれた谷川俊太郎の詩のどこがアヴァンギャルドなのかと思っていたのですが、講義で取り上げられた詩を見ると、確かに他のアヴァンギャルドの詩人たちに負けずとも劣らずかなりアヴァンギャルドです。私自身谷川俊太郎が好きで、毎日のように俊太郎の詩を読んでいた時期がありますが、実験的な詩があることには気がつきませんでした。もしかすると今まで取り上げられた詩人たちの中で、谷川俊太郎はもっともアヴァンギャルドな詩人かもしれません。それにしても、平易な言葉から実験的な言葉までその語彙はかなり豊富で、しかもいまだに創作意欲は衰えることなく書き続けているのですから、谷川俊太郎という人は驚異的な才能をもった詩人です。教室で読んだ詩は「壹部限定版詩集〈世界ノ雛形〉目録」(一部)、「日本語のカタログ」(一部)、「コップへの不可能な接近」、野村喜和夫さんの「斧の平和」、生徒の希望により岩成達也の「鳥の骨組みに関する覚書・同補足」(一部)でした。



コップへの不可能な接近

       谷川俊太郎


それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位としても用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられているけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)製作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由ではないにちがいない。
それほ主として渇きをいやすために使用される一個の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされくぼめられたふたつの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの美として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれをこの地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当は何なのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。



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by hannah5 | 2016-03-09 21:10 | 詩のイベント | Comments(0)

日本の詩を読む IX ~ 詩的アヴァンギャルドの100年(第7回)   


「詩的アヴァンギャルドの100年」の7回目の講義は、入沢康夫とその作品についてでした(2/29)。講義のタイトルは「入沢康夫あるいは死の脱構築」でした。実は私は入沢康夫は食わず嫌いで、読んだことがありませんでした。『かりのそらね』という詩集を持っているにはいるのですが、あけてみてもどうも読みにくい。野村喜和夫さんは『入沢康夫の詩の世界』という本を城戸朱里さんと出されているくらですから、入沢康夫についてはかなり詳しくて、そんなことから今回の講義はかなり面白く、オツムの中がふつふつ煮えくりかえるみたいに楽しかったです。と言っても、たぶん解説がないと入沢康夫は簡単には読めないだろうと思います。教室で読んだ作品は「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩―第九のエスキス」、「焦慮のうた」、「売家を一つもっています―作文のおけいこ―」、「『声なき木鼠の唄』のための素描」、「声なき木鼠の唄の来歴」、野村さんの「くねる日付/ムーヴィングアウト―〈入沢康夫的〉なものの方へ」でした。



かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩―第九のエスキス

        入沢康夫

一、

詩碑(しひ)の裏側(うらがは)から、甲高(かんだか)い嗤(わら)ひ声(ごゑ)とともに立(た)ちのぼる苔水晶(モスアガート)の雲(くも)。その底面(ていめん)の鉤(かぎ)に吊(つ)るされ、茶色(ちゃいろ)の幟(のぼり)のやうにたなびいてゐる二重(にぢゅう)の夢(ゆめ)―昨日(きのふ)までの私(わたし)たちにとつての、かけがへのない目当(めあて)。

二、

誰(だれ)かれの足跡(あしあと)は乾(かは)ひた風(かぜ)に吹(ふ)き払(はら)はれて行(ゆ)き、今(いま)はただ名(な)も知(し)れぬ花(はな)や石(いし)の挙(あ)げる声(こゑ)が、夕陽(ゆふひ)を浴(あ)びた橋(はし)の鉄骨(てつこつ)にまつはりつつまつはりつつ流(なが)れる。

三、

馬(うま)と雪(ゆき)の匂(にほ)ひの中(なか)で、私(わたし)たちは立(た)ちすくむ。あなたは知(し)らない。あなた自身(じしん)が生(う)み落(おと)した子供(こども)たちの行方(ゆくゑ)を、子供(こども)たちの現在(げんざい)の顔(かほ)はおろか、虫喰(むしく)ひだらけの画像(ぐわざう)のことも。

四、

あなたが心(こころ)に虚(うつろ)ろに座亜謙什(ざあけんじふ)の四文字(よもじ)で呼(よ)びなした男(をとこ)、その男(をとこ)もすでに遠(とほ)く遠(とほ)く去(さ)つた。すべてが冷(ひ)え、すべてが砂(すな)に帰(かへ)るこの裾野(すその)で、思(おも)ひ出(だ)したやうに爆竹(ばくちく)がはじけ、おどろいて舞(ま)ひ立(た)つ白鳥(はくてう)のひと群(む)れが、三度(さんど)輪(わ)を描(ゑが)いたのち、丘(をか)の向(むか)ふへ落(お)ち込(こ)んで行(ゆ)く。

(五、

防風林(ばうふうりん)の梢(こずゑ)から、またひとしきり降(ふ)る朱(あか)い実(み)、あるひは朱(あか)い実(み)の亡霊(ばうれい)。)

(六、

死者(ししや)たちを乗(の)せた客船(きやくせん)の灯(ひ)は蛍籠(ほたるかご)のやうに動(うご)き、置(お)きざりにされた唐草文様(からくさもんやう)の風呂敷(ふろしき)の中(なか)で、標本箱(へうほんばこ)とゴムバンドがひそひそと、古(ふる)い、そして幼(おさな)い恋(こひ)を語(かた)る。)

七、

鈴(すず)のやうな、房(ふさ)のやうなものが、いくつもぶら下(さが)る木(き)を、雁皮紙(がんぴし)に血(ち)で描(か)いたことがあると、いまだに言(い)ひはりつづけるいささか滑稽(こつけい)で、いささか深刻(しんこく)な男(をとこ)、その男(をとこ)のまわりには、飛(と)ぶ鳥影(とりかげ)、走(はし)る獣(けもの)の影(かげ)とてもない荒野(あれの)がひろがり、そこに飴色(あめいろ)のガラスでできた瓶(びん)の破片(はへん)がちらばつてゐる。

八、(欠落)

九、

もつれにもつれた白髪(はくはつ)(それはあなた自身(じしん)の魂(たましひ))によつて封印(ふういん)された十重二十重(とへはたへ)の挑発(てうはつ)。いま、一(ひと)つの時節(じせつ)の終(をは)るに当(あた)つて、わづかに身(み)じろぎし、身(み)じろぎしつつ凍(こご)えて行(ゆ)く掟(おきて)の鶏(とり)たち。




註)この詩はすべての漢字に振り仮名がふってあるのですが、ブログでは振り仮名にならずかっこの中に入ってしまいます。悪しからずご了承ください。
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by hannah5 | 2016-03-04 21:33 | 詩のイベント | Comments(0)