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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第4回-「夢の記述をめぐって」   


ダダ・シュルレアリスムの
100年の最終講義は自動記述が夢の記述へ移行していった過程やその広がりなどを中心に行われました(5/26)。読んだ作品はアンドレ・ブルトンの『通底器』(部分)、ポール・エリュアールの「眠れないという夢をみる」(『夢の軌跡』)、瀧口修造の「三夢三話」(部分)(『寸秒夢』)、野村喜和夫さんの「85(臨終博物館)」(『風の配分』)でした。ちなみに野村さんは全作品の1/5は夢をもとにして書かれているそうです。







眠れないという夢をみる


    ポール・エリュアール



 夢のなかで、ぼくはベッドにはいっていて、深夜だ。どうしても寝つけない。からだじゅうが痛い。電気をつけようとするのだが、手がとどかず、ぼくはベッドを出て、暗がりのなかを手さぐりでNの部屋のほうへ行きかけて、廊下でころんでしまう。そのまま起きあがることができず、ぼくはじりじりと這ってすすむ。息がつまりそうだ。胸がひどく痛む。Nの部屋の入口で、ぼくは眠りこんでしまう(眠りこんでしまうという夢だ)。

 突然、ぼくははっとして目をさます(目をさますという夢だ)。Nが咳をし、それがひどくこわかった。ぼくはそのとき、自分が身動きできなくなっていることに気づく。腹這いになっているのだが、胸と顔が地面にいやというほど圧しつけられている。めりこんでしまいそうだ。ぼくはNを呼んで、かの女に≪パ・ラ・リ・ゼ≫(麻痺している)という言葉を聞かせようと試みる。だめだ。ぼくはぞっとするような不安の思いで、自分がいま盲で、啞で、半身不随で、もう自分自身について何一つひとに知らせることができないのだということを考える。ぼくは生きているのに、ひとびとにとってぼくはいないも同然になるのだ。それから、ぼくは何か幕のようなものを想像する。両手で押しても破れない窓ガラスのようなもの。苦痛が次第に薄らいでくる。ぼくはふと、自分がはたして床板の上にいるのかどうかも指先でたしかめてみる気になる。ぼくは軽くシーツをつまむ。助かった。ぼくはベッドのなかにいるのだ。(一九三七年七月十八日の夢)


 起きているときでも、ぼくはこのような隔離の感じ、このような不安、このような苦痛、このような断末魔の苦しみに襲われる。そして腹が立ってくるようなとき、ぼくはいつでも破れかぶれの気持ちで、がむしゃらにそういう状態を再現しようとつとめる。

 ぼくは自分がすでに、はっきりと見捨てられ、忘れられたのだと思わずにいられないような、極度の肉体的な衰弱をしばしば経験しているため、最悪の瞬間には、ぼくはみずから進んで他人を自分から剥奪し、すべてのひとびとに逆らって生きる欲求を感じるのだ。(山崎栄治訳)








「三夢三話」より(部分)


    瀧口修造



 Ⅱ


 私はパリに着いて、まだ宿舎も定まらぬ身の上らしく、サン・ミッシェル大通りのどこか引っ込んだ古びたアパルトマンの一室に誘われてきたのだが、天上の明り窓から察すると屋根裏の住まいで、ろくな調度もない殺風景な部屋である。片隅の鉄製ベッドに、眼のつりあがった、肌の妙に白い三十女が半裸で、こちらには無関心にあぐらをかいたように坐っている。それは仏陀の半跏像を真似ているように見える。私はといえば、フランスの詩人たちと一緒に床の上に車座になり、懸命に語っているのであるが、よくしゃべる相手の詩人はバンジャマン・ペレである(彼は疾っくに故人のはず)。もうひとり、これも共に今は亡い詩人のロベール・デスノスとルネ・クレヴェルの二人、それが妙に重なり合ったようにひとりの人物として映っている。まだひとりいるのだが、誰かは判らず半透明の塊のようにぼけている。ただすこし離れた扉に寄りかかるように佇んで、無言のまま、むしろ冷やかにこちらを眺めているのは、背のすらりとしたジャック・デュパンである(これは現存の詩人で、私はミロを介して会ったことがあり、いまも時おり交渉がある)。意外なことには、私はいつともなく芭蕉、つまり蕉翁に仕立て上げられているのである。翁に成りすましているというよりも、その場でついそんな立場に追い込まれたのだ。というのは、私はそこでいわゆる「さび」についてフランスの詩人たちにむきになって何事かを説こうとしているのだが、そこには蕉翁らしい影もない普段の自分がいるだけだからである。外国語をかなり自由にしゃべれるというのも夢中の特権であろうが、ただ特定の言葉だけは鮮やかに夢の記憶に残るということが、私にはこれまでに時おりある。その夢では言葉そのものが動機になっているからであろう。とはいえ、いまのこの夢で語っていることは到底つじつまが合っているとはいえない。

 さび、それが俳諧の真髄のひとつであることを説こうとつとめているのだが蕉翁その人である私が、さびは錆に通じ、それは石や金属までも腐蝕し、しだいに消滅にみちびくが、しかし「さびし」にも通じる。それは孤独とも違ったもので、しかしどこか荒涼として、誰もいなくなり、ついには自分もいなくなる――だいたいそんな風なことをしゃべるのだが、自分はこと志と違ってことを言ったと悔んでいる。ペレは私を遮るようにして「それはフランス語のサビールsabirだ!」と、ここぞとばかりに叫ぶ。そして、これはもとはスペイン語で、フランス語のサヴォール(知る)と同じだが、この変てこな(ビザール)ら、ばおの「び」ないである。た、サビールサーブル、という言葉らい、意味フランス語しい






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# by hannah5 | 2019-07-18 14:51 | Comments(0)

「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第3回-「自動記述とは? 夢の記述とは?/西脇順三郎」   


ダダ・シュルレアリスムの
100年の3回目の講義は自動記述についてでした(4/28)。自動記述とは何か、自動記述におけるさまざまな分野での利用などを中心に講義が行われました。読んだ作品は西脇順三郎の「馥郁タル火夫」(『Ambaruvalia』)、アンドレ・ブルトンの『溶ける魚』(部分)と『シュルレアリスム宣言』(部分)、ブルトンとフィリップ・スーポーの「裏箔のない鏡」(部分)(『磁場』)、野村喜和夫さんの「ちたちたちた」(『幸福な物質』)と評論「自動記述と心象スケッチ」でした。





『シュルレアリスム宣言』


    アンドレ・ブルトン



 <シュルレアリスム>という言葉を、わたしたちがきわめて特殊な意味に解して使用する権利に、もしも異議をとなえる人間がいるとすれば、それはたいへんな言いがかりである。というのはわれわれは以前にこの言葉が行きわたったためしがないのは明らかだからである。そこでそれをはっきり定義づけておこう。


 シュルレアリスム
 男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを表現することを目標とする。理性による一切の統禦をとりのぞき、審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる、思考の口述筆記。

 <百科辞典的説明>。哲学用語。シュルレアリスムは、これまで閑却されてきた、ある種の連想形式の高度な現実性への信頼と、夢の全能への信頼と、思考の打算抜きの働きにたいする信頼に基礎をおく。それ以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代わって人生の重要な問題の解決に努める。<絶対的シュルレアリスム>の実践者は以下の人たちである。アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、タルヴェル、デルテイユ、デスノス、ユリェアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴィトラック。






ちたちたちた


    野村喜和夫



他の茎のなかでめざめた

ちたちたちた

石よりも硬い漿液に貫かれて

純粋な痛みが駆けのぼってくる

口唇からこぼれ落ちる舌の錆

私とは誰でありえたか

南面の性の崩落が激しい

北東には岬が立ちヘリウムと呼ばれる

ほろほろな空隙を踏みそこね踏み外し

リズムすべてはリズム

老いたところで何になろう

時の風紋のいただきに立ち

霧を集めては飲む虫の忍耐のよう

無限の右の繊維が裂けて

白磁のような外がのぞいた

西へすすむにつれ私はちぢむ

振り仰げばまだら母の深み

るりるりるり

全身にその刺青をほどこしてもらう






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# by hannah5 | 2019-07-17 14:09 | 詩のイベント | Comments(0)

「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第2回-「ダダの衝撃/ダダイスト新吉、ダダイスト中也」   


ダダ・シュルレアリスムの講義の
2回目はダダの運動がどのように広がっていったか、その起源と展開、その後の影響力などを中心に進められました(3/23)。ダダ以前に未来派やキュビズムがあったこと、ダダはチューリヒで始まったこと、ダダの語源、なぜダダなのか、ダダがパリでどのように受け入れられたか、日本でのダダの影響などが講義されました。読んだ作品はトリスタン・ツァラの「近似的人間(抄)」(部分)と「ムッシュー・アンチピリンの宣言(抄)」(部分)、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』より49番、中原中也の「ダダ音楽の歌詞」、萩原恭次郎の『死刑宣告』(部分)、塚原史の『ダダイズム―世界をつなぐ芸術運動』より「帽子の中の言葉」(部分)でした。




近似的人間(抄)


   トリスタン・ツァラ



1


重苦しい日曜日は沸騰する血液を覆う蓋となり

その筋肉の上にうずくまる一週間の重さが

再び見出されたそれ自体の内面に落下する

鐘たちは理由なく鳴り そして私たちもまた

鐘たちを理由なく鳴らせ そして私たちもまた

私たちは鎖の音に歓喜するだろう

鐘たちとともに私たちが自分の内面で鳴らす鎖の音に


 *


私たちを鞭打つあの言語は何か 私たちは光の中で跳びはねる

私たちの神経は時の両手に握られた何本もの鞭だ

そして疑いが片方だけの色のない翼で飛んできて

私たちの内面で締めつけられ押さえつけられて砕ける

破られて皺くちゃにされた包装紙のように

別の時代へすり抜けた棘のある魚たちの贈り物のように


 *


鐘たちは理由なく鳴り そして私たちもまた

果物たちの眼が私たちをしげしげと見つめ

私たちのすべての行動は見張られて隠しようもない

川の流れは川底を何度も洗って

引きずるような二つの視線を運び去る

れは酒場の壁の足元で多くの人生を舐め

弱者たちを誘い恍惚感が枯渇した誘惑に結びつき

昔から伝わる山積みの異本の底に穴を開け

囚われた涙の泉を解放する

息の詰まる日常に隷属してきた泉たち

(・・・)

川の流れは川底を何度も洗って

なめらかな波の上を光さえもが滑っていき

石が破裂する重々しい音とともに深淵に落下する






49


   高橋新吉



皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿

 倦怠

  額に蚯蚓這ふ情熱

 白米色のエプロンで

  皿を拭くな

 鼻の巣の黒い女

  其處にも諧謔が燻ぶつてゐる

   人生を水に溶かせ

   冷めたシチューの鍋に

  退屈が浮く

   皿を割れ

   皿を割れば

 倦怠の響が出る。

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# by hannah5 | 2019-07-17 13:17 | 詩のイベント | Comments(0)

野川朗読会10   


713日、10回目の野川朗読会が行われました(於成城ホール集会室)(後援は思潮社、モノクローム・プロジェクト、らんか社)。今回のひとことテーマは「怖い話」で、それぞれが怖い話にちなんだ作品を朗読しました。長野まゆみさんと田野倉康一さんとそらしといろさんの対談は古墳にまつわる話で、古墳のことはまったく門外漢の私ですが、中身の濃い話で面白かったです。


【一部】


〔朗読〕

新井高子、生野毅、渡辺めぐみ、浜江順子、北爪満喜、そらしといろ、杉本真維子


〔対談〕

長野まゆみ、田野倉康一、そらしといろ


【二部】


〔朗読〕

長野まゆみ、田野倉康一、樋口良澄、相沢正一郎、野村喜和夫、一色真理、岡島弘子


(司会)

一色真理


(敬称略)




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長野まゆみさん



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田野倉康一さん




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樋口良澄さん





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野村喜和夫さん




(写真の大きさが上手く調整できなくてすみません。)


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# by hannah5 | 2019-07-16 06:27 | 詩のイベント | Comments(0)

「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第1回-「先駆者たち/山村暮鳥、萩原朔太郎」   


野村喜和夫さんが講義される現代詩講座の第
6期が始まりました(2/24)。今回はダダとシュルレアリスムについての講義です。講義が始まる前に野村さんからいただいたメールには「言うまでもなくシュルレアリスムは、近代以降最大の文学・芸術運動で、その後の世界文学・芸術に与えた影響もはかりしれません。今年は、最初の自動記述による作品とされるアンドレ・ブルトン+フィリップ・スーポー『磁場』が発表されてからちょうど100年目にあたります。そこで、第6期はテーマを「ダダ・シュルレアリスムの100年」として行います。主としてフランスの詩人たちを中心に(テクストは翻訳を用いますので、フランス語の知識は必要ありません)、平行して日本のシュルレアリスム系詩人にもふれていこうと思います。」とありました。


以前は超現実主義という日本語訳が使われていたようですが、現在はシュルレアリスムという原語で使われることが多いようです。第1回目の224日はジェラルード・ネルバル、ロートレアモン、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、山村暮鳥などについての解説を織り込みながら、シュルレアリスムがなぜフランス文学から始まったか、ダダが日本の詩人にどのような影響を与えたかなどを中心に講義が行われました。読んだ作品はネルヴァルの「オーレリア」(一部)、「シダリーズ」、「廃嫡者」、アポリネールの「地帯(抄)」、「ミラボー橋」、ロートレアモンの「第一の歌」、「第五の歌」、「第六の歌」、山村暮鳥の「(たは)(ごと)、野村さんの「百年の暮鳥」でした。






地帯(抄)
Zone


   ギヨーム・アポリネール



ついに君はこの古くさい世界に倦きた


羊飼いの娘 おおエッフェル塔よ 橋々の群れは今朝 羊のように鳴きわめく


君はうんざりしている ギリシアやローマの古代の生活に


ここでは自動車さえもが古く見える

宗教だけが未だに真新しい 宗教だけが


君は一人だ じきに朝が訪れる

あちこちの通りで牛乳屋が缶を鳴らす

夜は美しい混血娘(メチス)のように遠のいていく

それは腹黒いフェルディーヌか 注意深いレアだ


そして君は飲む 君の命のように燃えるこのアルコールを

命の水(ブランデー)のように君が飲む君の命


君はオートゥイユのほうに向う 歩いて家に帰り

オセアニアとギニアの物神に守られて眠りたいのだ

それらの物神は 別の形をした別の信仰のキリストたち

漠とした希望の 下位にくらいするキリストたちだ


ではさらば さようなら


太陽 () 切られて(クペ)






(たは)(ごと)


   山村暮鳥



竊盗金魚

強盗喇叭(らっぱ)

恐喝胡弓

賭博ねこ

詐欺更紗

瀆職(とくしょく)天鵞絨(びろうど)

姦淫林檎

傷害雲雀

殺人ちゆりつぷ

堕胎陰影

騒擾(そうぜう)ゆき

放火まるめろ

(いうかい)かすてえら。







百年の暮鳥


   野村喜和夫



いちめんの野の鼻

いちめんの野の鼻


腸串って

あらしあらしキミハイタルトコロデ作動シテイル

強姦サキソフォン

監禁マダラカ


字と絵と)ぶらっ背)聾)ぶっ(出て(ぬぶっ(尾おっ(麩論(出っぱれ

露)得て(洩ると


腸串って

にくしんに薔薇を植ゑキミハ呼吸シキミハ熱ヲ出シキミハ食ベ

字と絵と)れれべ)いやん(荒れ得ぬ(生

ぶっ)餌(血みっど


キミハイタルトコロデ作動シテイル

主体ヲ載セカツ轢キ殺シ


呪るべ)穴)ぼわっ)る)られ)地痰(れ(らぶ(れ得ぬ(うっ


腸串って

あかんぼのへその芽キミハ大便ヲシキミハ肉体関係ヲ結ンデイルキミハ


字も絵も(治安(ぶっ(まん(こまん(驟雨)老べろん)飛ん)べーる)おっ)婆)斜背


いちめんの野の鼻 いちめんの野の鼻

いちめんの野の鼻 いちめんの野の鼻


目ヲ瞑レマダ正午ダ目ヲ瞑レマダ正午ダ目ヲ


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【講義予定】

# by hannah5 | 2019-03-11 23:37 | 詩のイベント | Comments(0)

「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第5期-「愛の詩の12ケ月」第4回   


「愛の詩の
12ケ月」の4回目(最終回)は、最初の前半でパウル・ツェランの詩を中心に講義が行われ、後半は受講生達が選んだ愛の詩(一人数編ずつ)の中からそれぞれ編ずつを野村さんが朗読されました(1/27)。愛の詩には受講生自身の詩を入れてもよく、またそれらの詩は多岐にわたっていて大変面白かったです。題名と作者を列挙してみると:


ジャック・プレベール:「夜のパリ」「朝の食卓」

黒田三郎:「秋の日の午後三時」

那珂太郎:「小品」

長島なみ子:「ドクダミ」

伊藤ひろみ:「歪ませないように」

尾形亀之助:「風」

小池昌代:「熱い岸」

新藤涼子:「行き方知れず」

寺山修二:「和子について」

野村喜和夫:「パレード13」「くみね日誌」「あるいはリラックス」

蜂飼耳:「丹沢」

高村光太郎:「あなたはだんだんきれいになる」「裸形」

吉原幸子:「オンディーヌ」「ジェイ二 坊や」

茨木のり子:「怒る時と許す時」

西脇順三郎:「ヴィーナス祭のぜんばん」

シェイクスピア:「ソネット第18番 ぶどう色の酒」

ポール・エリュアール:「最初により」

ユー・ギャハ:「リルケを読む」「僕と同様リルケが好きなかすみへ」

山内獏:「土地3

立原道造:「ゆうすげびと」

大岡信:「丘のうなじ」

岡島弘子:「こごえた初恋」

岩田宏:「幼い恋」

吉岡実:「単純」

飯島耕一:「赤丘」「夕陽の中へ」

清岡卓行:「アカシヤの大連」「夏の海の近くで」

入沢康夫:「夜 われらの逢い引きの場所」「楽園の思い出」

ユン・ドンジュ:「序詞」「空と風と星と詩」

シンボルスカ:「感謝」

サトー八ロー:「お母さん2より」

村上あきお:「十姉妹」

高橋睦夫:「あがない」

岸田将幸:「人の朝」

小笠原しげすけ:「涙」

金子光晴:「春」

川崎弘:「地下水」

田中さち:「風はいつも」

新川和江:「路上」

草野心平:「何もかももう煙突だ」

作者?:「立像のように」「愛の歌」「女坂」「恋のメモリ」「ドクダミ」

受講生の詩:「死ぬまで一緒に」「月の背中で」「無音」

(朗読順)






(コロ)()


   パウル・ツェラン



僕の手のひらから秋はむさぼる、秋の木の葉を――僕らは恋人同士。

僕らは胡桃(くるみ)から時を剥きだし、それに教える、歩み去ることを――

時は殻の中へ舞い戻る。


鏡の中は日曜日。

夢の中でまどろむ眠り。

口は真実を語る。


僕の目は愛するひとの性器に下る――

僕らは見つめあう、

僕らは暗いことを言いあう、


僕らは愛しあう、()()と記憶のように、

僕らは眠る、貝の中の葡萄酒のように、

月の血の光を浴びた海のように。


僕らは抱きあったまま窓の中に立っている、みんなは通りから僕らを見まもる――


知るべき時!

石がやおら咲きほころぶ時、

心がそぞろ高鳴る時。

時となるべき時。


その時。


(パウル・ツェラン詩集『罌粟と記憶』より/飯吉光夫訳)





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# by hannah5 | 2019-03-09 23:49 | 詩のイベント | Comments(0)