「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第4回-「夢の記述をめぐって」
2019年 07月 18日
ダダ・シュルレアリスムの100年の最終講義は自動記述が夢の記述へ移行していった過程やその広がりなどを中心に行われました(5/26)。読んだ作品はアンドレ・ブルトンの『通底器』(部分)、ポール・エリュアールの「眠れないという夢をみる」(『夢の軌跡』)、瀧口修造の「三夢三話」(部分)(『寸秒夢』)、野村喜和夫さんの「85(臨終博物館)」(『風の配分』)でした。ちなみに野村さんは全作品の1/5は夢をもとにして書かれているそうです。
眠れないという夢をみる
ポール・エリュアール
夢のなかで、ぼくはベッドにはいっていて、深夜だ。どうしても寝つけない。からだじゅうが痛い。電気をつけようとするのだが、手がとどかず、ぼくはベッドを出て、暗がりのなかを手さぐりでNの部屋のほうへ行きかけて、廊下でころんでしまう。そのまま起きあがることができず、ぼくはじりじりと這ってすすむ。息がつまりそうだ。胸がひどく痛む。Nの部屋の入口で、ぼくは眠りこんでしまう(眠りこんでしまうという夢だ)。
突然、ぼくははっとして目をさます(目をさますという夢だ)。Nが咳をし、それがひどくこわかった。ぼくはそのとき、自分が身動きできなくなっていることに気づく。腹這いになっているのだが、胸と顔が地面にいやというほど圧しつけられている。めりこんでしまいそうだ。ぼくはNを呼んで、かの女に≪パ・ラ・リ・ゼ≫(麻痺している)という言葉を聞かせようと試みる。だめだ。ぼくはぞっとするような不安の思いで、自分がいま盲で、啞で、半身不随で、もう自分自身について何一つひとに知らせることができないのだということを考える。ぼくは生きているのに、ひとびとにとってぼくはいないも同然になるのだ。それから、ぼくは何か幕のようなものを想像する。両手で押しても破れない窓ガラスのようなもの。苦痛が次第に薄らいでくる。ぼくはふと、自分がはたして床板の上にいるのかどうかも指先でたしかめてみる気になる。ぼくは軽くシーツをつまむ。助かった。ぼくはベッドのなかにいるのだ。(一九三七年七月十八日の夢)
起きているときでも、ぼくはこのような隔離の感じ、このような不安、このような苦痛、このような断末魔の苦しみに襲われる。そして腹が立ってくるようなとき、ぼくはいつでも破れかぶれの気持ちで、がむしゃらにそういう状態を再現しようとつとめる。
ぼくは自分がすでに、はっきりと見捨てられ、忘れられたのだと思わずにいられないような、極度の肉体的な衰弱をしばしば経験しているため、最悪の瞬間には、ぼくはみずから進んで他人を自分から剥奪し、すべてのひとびとに逆らって生きる欲求を感じるのだ。(山崎栄治訳)
「三夢三話」より(部分)
瀧口修造
Ⅱ
私はパリに着いて、まだ宿舎も定まらぬ身の上らしく、サン・ミッシェル大通りのどこか引っ込んだ古びたアパルトマンの一室に誘われてきたのだが、天上の明り窓から察すると屋根裏の住まいで、ろくな調度もない殺風景な部屋である。片隅の鉄製ベッドに、眼のつりあがった、肌の妙に白い三十女が半裸で、こちらには無関心にあぐらをかいたように坐っている。それは仏陀の半跏像を真似ているように見える。私はといえば、フランスの詩人たちと一緒に床の上に車座になり、懸命に語っているのであるが、よくしゃべる相手の詩人はバンジャマン・ペレである(彼は疾っくに故人のはず)。もうひとり、これも共に今は亡い詩人のロベール・デスノスとルネ・クレヴェルの二人、それが妙に重なり合ったようにひとりの人物として映っている。まだひとりいるのだが、誰かは判らず半透明の塊のようにぼけている。ただすこし離れた扉に寄りかかるように佇んで、無言のまま、むしろ冷やかにこちらを眺めているのは、背のすらりとしたジャック・デュパンである(これは現存の詩人で、私はミロを介して会ったことがあり、いまも時おり交渉がある)。意外なことには、私はいつともなく芭蕉、つまり蕉翁に仕立て上げられているのである。翁に成りすましているというよりも、その場でついそんな立場に追い込まれたのだ。というのは、私はそこでいわゆる「さび」についてフランスの詩人たちにむきになって何事かを説こうとしているのだが、そこには蕉翁らしい影もない普段の自分がいるだけだからである。外国語をかなり自由にしゃべれるというのも夢中の特権であろうが、ただ特定の言葉だけは鮮やかに夢の記憶に残るということが、私にはこれまでに時おりある。その夢では言葉そのものが動機になっているからであろう。とはいえ、いまのこの夢で語っていることは到底つじつまが合っているとはいえない。
さび、それが俳諧の真髄のひとつであることを説こうとつとめているのだが蕉翁その人である私が、さびは錆に通じ、それは石や金属までも腐蝕し、しだいに消滅にみちびくが、しかし「さびし」にも通じる。それは孤独とも違ったもので、しかしどこか荒涼として、誰もいなくなり、ついには自分もいなくなる――だいたいそんな風なことをしゃべるのだが、自分はこと志と違ってことを言ったと悔んでいる。ペレは私を遮るようにして「それはフランス語のサビールsabirだ!」と、ここぞとばかりに叫ぶ。そして、これはもとはスペイン語で、フランス語のサヴォール(知る)と同じだが、この変てこな語はすべてを含んでいるから、元をたどればお前の「さび」と同じに違いない、と言うのである。そしてまた、このサビールがまたサーブル、すなわち砂に転ずる。この砂という言葉くらい、多くの意味をもつフランス語も珍しい。
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# by hannah5 | 2019-07-18 14:51