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日本の詩を読む VII その4   


5月21日(月)は「日本の詩を読む」の4回目の講義がありました(講師は野村喜和夫さん、教室は池袋の淑徳大学サテライトキャンパス)。今回は「詩人の変容」と題して、萩原朔太郎と西脇順三郎がそれまでのスタイルをまったく変えてしまったこと、いわゆるターニング・ポイントとなった作品とその背景、第三者からの批判などを学びました。読んだ作品は萩原朔太郎の 『氷島』 から「漂白者の歌」と自序、西脇順三郎の 『旅人かへらず』 から5篇の作品とはしがきでした。(現代では行われていませんが、昔の詩集には詩集の冒頭に「自序」を入れることが多かったそうです。朔太郎の自序と西脇のはしがきはともに両者の変化を知る上で興味深いものです。)

日本で初めての口語自由詩の確立者として評価を得ていた萩原朔太郎は、後年伝統的詩歌に傾倒し、それまでの口語自由詩から漢語を中心とした漢文訓読調による作品へと変化していきます。しかし、朔太郎の一番弟子だった三好達治は、この漢文調の文語は文法が正しくないとして猛烈に批判をします。那珂太郎からも批判が出るなど、詩人の世界では批判が続出しました。しかし、芥川龍之介や寺田透など、詩以外の世界では絶賛を受けるなど、大変好意的に受け入れられたようです。

戦争期をいかに過ごしたか。戦前から戦中戦後へと時代が変わり、それまで西洋崇拝一辺倒だった詩人たちが、ある者は戦争協力詩へ、またある者は反戦詩へと移る中、西脇順三郎は沈黙を通しました。そして、戦時中に育んだものを10年近くかけて準備、『旅人かへらず』を発表しましした。しかし、この詩集は西脇の一番弟子だった北園克衛が批判、西脇を「風邪を引いた牧人」であるとまで言わせました。



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漂白者の歌

       萩原朔太郎


日は斷崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
續ける鐵路の柵の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂ふ。

ああ汝 漂白者!
過去より來りて未來を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ步むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を斷絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 惡魔よりも孤獨にして
汝は氷霜の冬に耐へたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを彈劾せり。
いかなればまた愁ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に歸らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき斷崖を漂白(さまよ)ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷はあらざるべし!





旅人かへらず

       西脇順三郎




旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃




窓に
うす明りのつく
人の世の淋しき




自然の世の淋しき
睡眠の淋しき




かたい庭




やぶからし

by hannah5 | 2012-05-22 16:54 | 詩のイベント

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