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私の好きな詩・言葉(154)  「緑の焔」 (佐川 ちか)   


緑の焔


私は最初に見る 賑やかに近づいて来る彼らを 緑の階段をいくつも降りて 其処を通つて あちらを向いて 狭いところに詰つてゐる 途中少しづつかたまつて山になり 動く時には麦の畑を光の波が畝になつて続く 森林地帯は濃い水液が溢れてかきまぜることが出来ない 髪の毛の短い落葉松 ていねいにペンキを塗る蝸牛 蜘蛛は霧のやうに電線を張つてゐる 総ては緑から深い緑へと廻転してゐる 彼らは食卓の上の牛乳壜の中にゐる 顔をつぶして身を屈めて映つてゐる 林檎のまはりを滑つてゐる 時々光線をさへぎる毎に砕けるやうに見える 街路では太陽の環の影をくぐつて遊んでゐる盲目の少女である。

私はあわてて窓を閉ぢる 危険は私まで来てゐる 外では火災が起こつてゐる 美しく燃えてゐる緑の焔は地球の外側をめぐりながら高く拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ

体温は私を離れ 忘却の穴の中へつれもどす ここでは人々は狂つてゐる 悲しむことも話しかけることも意味がない 眼は緑色に染まつてゐる 信じることが不確になり見ることは私をいらだたせる

私の後から目かくしをしてゐるのは誰か? 私を睡眠へ突き堕せ。


( 『佐川ちか全詩集』 より)





ひとこと

昭和の初めに、しかも若い女性によって、このような現代詩が書かれていたことに驚きを禁じえない。ちかはいろいろな詩形を試みて現代詩に至ったのではなく、最初からこのような形の詩を書いていたということである。しかも、それは突然始まった。18歳から亡くなる24歳までの6年間、ちかはおびただしい数の詩篇を残している。24年というあまりにも短い生涯。作品の中には未熟な感じのものもあるが、どの作品を読んでも、詩を書くことの喜びと痛みが若いいのちの中から溢れるように伝わってくる。若いということは、まだ未来の方向性が決まっていない分、どのような方向に行こうとも許されるものであると、改めて思う。

ちかの詩はその多くに死の影がつきまとう。それは彼女が二十歳のころに腸間粘膜炎にかかり、数年後、命取りとなった胃癌を患ったことと関係があるのだろう。しかし、それがかえって作品に緊張感を与えている。



佐川 ちか(さがわ ちか)

1911年(明治44)北海道余市に生れる。本名川崎愛。
1923年(大正12)小樽商の生徒だった兄の親友、伊藤整を知る。
1929年(昭和3)小樽高等女学校補習科修了。8月上京。伊藤整を通じ、詩人、作家たちとの交流が広がる。12月世田谷区に転居。
1929年(昭和4)伊藤整、川崎昇、河原直一郎らが創刊した月刊文芸誌「文芸レビュー」に佐川千賀の名で、モルナアル、ハックスレイ等の翻訳を発表し始める。9月、百田宗治夫妻より萩原朔太郎との縁談を打診されるが、兄が断る。松ノ木の田園アパートに伊藤整をしばしば訪ねる。
1930年(昭和5)北園克衛を知る。以後、北園克衛はちかのもっとも良き理解者となる。8月、佐川ちかの名で「ヴアリエテ」に「昆虫」を、4月「青い馬」を「白紙」(後に「化粧する銅像」)に発表。伊藤整結婚。
1931年(昭和6)春頃より腸間粘膜炎にかかり、1年間投薬。
1932年(昭和7)ジェイムズ・ジョイスの訳詩集 『宝楽』 刊行。「マダム・ブランシェ」「椎の木」「海盤車」「文学」等に作品を発表。
1934年(昭和9)8月下旬、江間章子、小松清、三浦逸雄・朱門父子らと新島に旅行。
1935年(昭和10)10月癌研究所附属康楽病院に入院。胃癌の末期症状と診断される。入院翌日より11月2まで病床日記をつづる。12月、病状悪化により死期の近いことを知り、退院。世田谷の家に帰る。
1936年(昭和11)1月7日逝去。享年24。11月昭森社より『佐川ちか詩集』刊行。
( 『佐川ちか全詩集』 年譜よりコピー抜粋)

*『佐川ちか全詩集』は古書マルドロールにて購入できます。1冊¥4,700。

by hannah5 | 2013-08-20 18:04 | 私の好きな詩・言葉

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