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日本の詩を読む X 「日本の訳詩集を読む その7」   


1月6日(月)は「日本の訳詩集を読む」の7回目の講義でした。今回はヴァルター・ベンヤミンの 『翻訳者の使命』 (円子修平訳)から純粋言語に関するベージを読みました(p.268-279)。

ベンヤミンの文章は一回読んだだけではすぐには呑み込めず、いかにも難解な印象があります。しかし、何度か読んでみると、難解というよりベンヤミンの純粋性を追い求めるがゆえの理想主義であることが見えてきます。ベンヤミンの発想は大変面白いのですが、このようなことは起こり得ないだろうと思います。少し引用してみます。

「二つの国語の血縁性が翻訳においてあらわれるとすれば、それは模作と原作との漠然とした類似によるのとは別な遣り方で起るのである。一般に、血縁性のあるところにかならず、類似が生ずるとかぎらないことはあきらかな事実である。この関連における血縁性の概念は、この概念が狭義においても広義においても起源の同一性によっては充分に定義されえない(もちろん狭義における定義にとっては起源の概念を欠くことができないが)ことを前提として、狭義における血縁性の概念と一致する。――二つの国語の血縁性は、史的血縁性を除くとすれば、どこにその実質をもとうるのであろうか?二つの文学の類似のなかにでもその二つの文学の言葉の類似のなかにでもないことはたしかである。むしろ諸国語のあらゆる超歴史的な血縁性の実質は、個々の全体としての諸国語がひとつの、しかも同一なものをめざしている点にある。この同一なものとは、それにもかかわらず諸国語のなかの個々の国語によってではなく、それら個々の国語の互いに補完的な志向の総体によってのみ達成されうるもの、すなわち純粋言語である。諸国語のあらゆる個々の要素、つまり語、文、関連がたがいに排除し合う一方では、これらの諸国語はその志向そのものにおいて互いに補完し合うのである。言語哲学の根本法則のひとつであるこの法則を把握するためには、その志向のなかで、意味されるもの(ダス・ゲマインテ)と言い方(デイー・アールト・デス・マイネンス)とを区別しなければならない。において、たしかに意味されるものは同一であるが、その言い方は同一ではない。つまりこの言い方のなかに、この二語はドイツ人とフランス人とにとってそれぞれに異なるものを意味すること、この二語は両者にとって交換できないものであり、結局はたがいに排除し合うものであること、しかし意味されるものから見て、絶対的に考えれば、同一なものを意味することがあらわれている。言い方は、このようにこの二語においてたがいに敵対し合う一方、その言い方が属する二つの国語のなかではたがいに補完し合う。それは、二つの国語のなかで、意味されるものとの関係において補完し合うのである。つまり個々の補完されない国語においては、個々の語あるいは文においてと同様に、その国語によって意味されるものはけっして相対的な自立性に到達できないのであって、それがあのあらゆる言い方の調和のなかから純粋言語としてあらわれうるまでは、絶えざる変容のなかで把握されるほかはないのである。そのときまでそれは国語のなかに隠れ潜んでいる。しかしもし諸国語がその歴史のメシア的終末にまで生長しつくすならば、そのときこそ翻訳は諸作品の永遠の死後の生と諸国語の無限の復活とに触れて燃え上り、絶えずあらたに、諸国語のあの神聖な生長、すなわちそれら諸国語に隠されているものが啓示からどれだけ離れているか、それはこの距離の認識のなかにどのように現在するかを検証するのである。」

純粋言語が終末におけるメシア来臨によりあらわれるとするこの考え方は大変面白いと思いました。ベンヤミンはユダヤ神秘主義だそうですが、キリスト教で言う新しい天地の出現、純粋に完全なるものが神の栄光とともに永遠に続くと言われているものと非常に似ています(黙示録21, 22章)してみると、終末のメシヤ来臨(あるいは再臨)とともに言語は新しい言語、朽ちることのない純粋な言語になるということなのでしょうか。

さらにベンヤミンは翻訳者の使命についてもこう言っています。
「したがってある翻訳が、とりわけそれが成立した時代に、翻訳の言語で書かれた原作であるかのように読めるということが、その翻訳にたいする最高の賛辞なのではない。むしろ、その作品が言語完成への大いなる憧憬を語っているということこそ、逐語性によって保証される忠実の意義なのである。真の翻訳は透明であって、原作を蔽わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められた純粋言語の光を原作の上にいっそうくまなく射さしめるのである。それはなによりもまずシンタックスの置き換えにおける逐語性がなしうることである。そしてその逐語性こそは文ではなくて語が翻訳者の原要素(ウルエレメント)であることを証明するのである。なぜなら文は原作の言語のまえの壁であり、逐語性はアーケードだからである。」

ベンヤミンは最後に聖書こそ最高の翻訳物であると述べています。(ここで言う聖書はベンヤミンの場合、タルムード。)
「ヘルダーリンの翻訳は翻訳という形式の原型である。そして、ピンダロスの第三ビューティア頌歌のヘルダーリンによる翻訳とボルヒァルトによる翻訳との比較がしめすように、それとテクストの完璧な置き換えとの関係は、原型と模範との関係に等しい。しかしまさしくそれゆえに、他の翻訳にもましてそこにはあらうる翻訳の巨大な根源的な危険、すなわち、拡大され完全に支配された言語の門が不意にしまって、翻訳者を沈黙のなかに閉じこめてしまう危険が潜んでいる。ソポクレース翻訳はヘルダーリンの最後の作品であった。そのなかでは意味は深淵から深淵へと転落し、竟には言語の底なしの深みのなかに失われようとする。転落にも終止はある。しかし、そのなかでは意味が言語の奔流と啓示の奔流との分水線であることを熄めた聖書以外には、どのようなテクストも意味の転落を終止させることはできない。テクストが直後に、意味の媒介なしに、その逐語性において真の言語、真理もしくは教義に属するとき、そのテクストはあきらかに翻訳可能である。言うまでもなく、そのテクストのためにというよりは、ただたんに言語のためにである。このようなテクストにたいしては無限の信頼が翻訳の義務である。すなわち、聖書において言葉と啓示とが緊張なく合一しているように、この翻訳においては、逐語性と自由とが、緊張なく、行間翻訳のかたちで合一しなければならない。なぜならあらゆる偉大な書物はある程度、最高度には聖書が、行間にその潜勢的翻訳を含んでいるからである。聖書の行間翻訳はあらゆる翻訳の原型もしくは理想である。」

あらゆる読み物に勝る価値を聖書に置く私としては、最終行の言葉はその通りであると言いたいところですが、聖書翻訳はこのように簡単には決めることができない部分があります。なぜなら、一つ一つの原語(旧訳はヘブル語、新訳はギリシャ語)は幾通りにも解釈できることがあり、どの解釈を支持するかによって聖書の翻訳が違ってくるからです。神学者たちは今でも聖書の神学的解釈を巡って議論しており、神学的解釈にアクセスのない一般信徒は異なる解釈による翻訳を信奉することによって信仰さえも違ってきます。

時間的余裕があればベンヤミンの 『翻訳者の使命』 全部を読みたいところですが、これは将来の宿題に残しておきましょう。

by hannah5 | 2014-01-14 20:56 | 詩のイベント

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