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私の好きな詩・言葉(171)   


雪わりのバラライカ  菅啓次郎さんに


さっきの蚤の市で 六百ルーブルで買った
ミリタリーブーツをさわる
羊歯がその凍った波音で ぼくを
地面に呼びもどそうとする
見たこともない小鳥たちが鼓動一回分だけ
たちどまり 雪道のうえにも
蜃気楼をつないだ 森には
いつだって 極微の伝説が生まれる
北極星の星穴 雪をかぶったマイヅルソウの
まさにいまこれから
舞いあがろうとする銀の葉のうえに見つけた
タケネズミ一家の
移動の足あと 森は静けさの喉の奥で
かたちのない変身への第一声をあげる
留学生だったサーシャは自然観察用とおぼしき
古びた露日辞書のページを
鹿皮の手袋をはめた無骨な指先でめくる
彼女はいま言葉のハンター
ロシア人特有の やや度がすぎた几帳面さで
辞書の銃眼から森をゆっくりにらみ
ページをわたる風を計測し あれは モミ です
とおごそかにトリガーをひく たしかに
トドマツはモミ属 これは
ホボーシュ イノシシがよく食べています
トクサはロシア語でホボーシュ
東北の水辺でよく見かけた頭のないアスパラガス
ムーミンのニョロニョロに似た青臭い茎が
耳もとに浮かぶ ぼくはなんだかうれしくなって
道々 ホボーシュ ホボーシュ と口ずさみ
やがてうたいだしながら 歩いていく
じゃあ この胡桃は?
ええ それは マンジェルノ
マンジェルノ マンジェルノ
なんだかおいしそうな名前だね
はい ウオトカに三年漬けると
ふわふわのお餅になっておいしく食べられます
森の奥底から通奏低音のような
ボォホウ ボォホウ という鳴声が聴こえる
あれはなに? あれは ええと
鳴かないウグイス ですね
こんどは 鳴かないウグイス! ぼくはその
日本語には存在しないじつに詩的な鳥名に
びっくりしてしまう
いいえ いいえ 待ってください
やっぱりカッコウ カッコウ です?
断言と疑念がいりまじる 八割方は幽霊的な構文が
日本語だとすんなり意味がとおって
聴こえてしまうのだから なんだかおかしい
カッコウはそんな声では鳴かないよ
そういえば昨日 赤の広場からの帰り
湖畔のサウナ小屋(バニヤ)で地平線を刻々きざんでゆく
黒い太陽を見つめながら 長い睫毛を伏せがちに
きみはこんな話をしてくれたっけ
わたしたちロシア系ユダヤ人は
伝統として物や樹や雲や 小石の物語を
聴くのです ですからクラースナヤ
プローシシャチを訪れると
ついあの あざやかな朱の壁たちに
どんな音を聴いたことが
あるのか 尋ねてみたくなります
ぼくはといえば そのバスタオルのしたで
大きくふくらんだ きみの乳房と
寒さでそり返り 怨ずるようにとがったものが
どんな音を発させるのか 気が気じゃなかったけど
ねえ サーシャ 音というものは
いつだって ぼろぼろの幻をはりつけた
魂の内壁にすぎない それでも
ぼくの耳の外にあるやわらかい月
そのオウム貝のうえで
鳴かないウグイスたちが
ここでも彼方でもなく
つぎつぎ孵化し 羽ばたきはじめている
詩人としてのぼくの祈りは
言葉が裸にされてしまうこと
文字が音符にまで解凍され 奇妙にまぶしい
無音の国際音標文字であること
括弧だらけの枯れ草のうえにちらばった
スグリの紅い実と折れ枝の通信録 突風のごとく
上昇するオオアジサシの群れが巻きあげた
粉雪は 森の十字架に見える杣道の十字路でぶつかり
七色に音声変化する でもさ
鳴かないウグイスって ほんとうに
ロシア語にいるの? 彼女は雪水の清流につかった
ヘビイチゴを思わせる 冷たく熟れた唇を
とがらしていう
だって 辞書にそう書いてあるけん!

(石田瑞穂詩集 『耳の笹舟』 より)






ひと言

浄化された言葉が一面の雪原の中で静かに息をしている。ひとつ息を吐くたびに白い湯気が立ち上る。しかし、その息は孤独で寂しいものではない。豊穣の言葉があたたかく力強い生命力をもって鼓動しているのだ。

石田瑞穂さんの作品に初めて触れた。長い時間をかけて何度も詩集を読み返した。どの作品も私の中で美しい鈴の音を響かせてくれた。今までいろいろな詩集を読んできた。いろいろな形があった。そのたびに私自身の詩にそれらの痕跡が残った。もうそろそ私自身の着地点を決めよう。そう思い始めていた頃、瑞穂さんの作品に出会った。

『耳の笹舟』は昨年、第54回藤村記念歴提賞を受賞した。



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by hannah5 | 2017-01-05 19:48 | 私の好きな詩・言葉

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