「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第4期-「日本におけるランボー」第3回、第4回   


野村喜和夫さんが講義される「日本におけるランボー」の第
3回は「モダニズムと戦後のランボー受容」(7/22)、そして第4回は「私のランボー体験」でした(8/26)。3回目の講義では、戦後日本でランボーがどのように受容されていったか、ランボーの作品を翻訳した中原中也や小林秀雄に焦点を当て、その他ランボーを翻訳した人たちの訳の違いなどを比較しました。読んだ作品は西脇順三郎の評論「日光菩薩ランボー」、瀧口修造の「詩と実在」(部分)、粟津則雄訳のランボーの「コントCONTE」、清岡卓行の「最後のフーガ」、渋沢孝輔の「越冬賦」、鈴村和成訳のランボーの「酔いどれボート」(部分)でした。


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回目の「私のランボー体験」では野村さんがどのようにランボーと関わってこられたかを中心に講義が進められました。「あらゆるテクストは先行するテクストの書き換えである」というジュリア・クリステヴァの言葉を引用し、野村さんの詩に反映されたランボーの詩を読みながら、最終講義は野村ワールドが炸裂した感じでした。(副題は「ランボーとのわがテクスト間交流―本歌取り? 換骨奪胎? 脱構築?」。)読んだ作品は「シャルルヴィル発歯痛」、「アダージェット、暗澹と」、「そこ、緑に蔽われた窪地」、「スペクタクルあるいは波」、「この世の果てあるいは希望」でした。



スペクタクルあるいは波

        野村喜和夫

   
   不眠の夜の海は、アメリーの乳房のよう。

        ――アルチュール・ランボー

   海にゐるのは、

   あれは人魚ではないのです。

   海にゐるのは、

   あれは、波ばかり。

        ――中原中也



わたくしの果ての世の月明かりの

液晶の海に

ちらちら

みえているのは

あれは人魚でも波でもなく

眠れない女たち


人のうち

どこまでもやわらかく

重たげな肉をうねらせ分泌にみち

眠れない

とりわけ眠れない女たち


おおたえまなく寝返りをうつ女たち眠れない眠れない

するとたとえようもなく

うなじの明るみ

針を刺すと

ぞろぞろと白い虫たちがあふれ出すような

その照り映え

その照り映え

その照り映え


捕獲の網を手に

誰だわたくしは

夏の日の少年でもあるまいし

ただこんなにも睾丸が

睾丸だけが

卵黄のように垂れた月をまねて重い


そのあいだにも

眠れない女たちのすさまじいパーティだパーティ


ひとりが

パンプスをはいたままベッドを飛び越え

蹴り上げる昼の鬱屈の隣で

べつのひとりが

ベッドをたてて

くるくるとまわしはじめる

ワルツもうどうしようもなくワルツその照り映えその照り映え


わたくしの果ての世の月明かりの

液晶の海に

ちらちら

みえているのはあれは人魚でも波でもなく

眠れない女たち


.


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by hannah5 | 2018-08-29 21:25 | 詩のイベント | Comments(0)

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