私の好きな詩・言葉(58) 「春の曲」 (島崎 藤村)
2005年 11月 01日
うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざゝれて
世は春の日とかはりけり
ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ糸は
けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて
春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の台(うてな)といふべけれ
小蝶よ花にたはぶれて
優しき夢みては舞ひ
酔ふて羽袖(はそで)もひらひらと
はるの姿をまねひかし
緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠(はながさ)ぬひそへて
ゆめ静(しずか)なるはるの日の
しらべを高く歌へかし
(『若菜集』より)
解説
先週、『若菜主』 以外の藤村の詩集から一遍読んでみたいと申し上げたが、4つの詩集を読んでいくうちに、『若菜集』 がやはりいいので、再び 『若菜集』 から感銘を受けた詩をご紹介したい。
「春の曲」は本当は春爛漫とした日に読むのがもっともふさわしいと思う。実際、この詩に出会ったのも春うららかな日であった。これほど春を春らしく美しく書いた詩もなかろうと思って、しばし眺めたほどだった。
4つの詩集とは第一詩集 『若菜集』 (1897年8月)、第二詩集 『一葉舟』 (1898年6月)、第三詩集 『夏草』 (1898年12月)、第四詩集 『落梅集』 (1901年8月)のことで、春陽堂から刊行された。以下の序文は1904年9月、春陽堂より合本 『藤村詩集』 が刊行された際に寄せられた序文である。詩に対する藤村の意気込みが伝わってくる。そして何よりも日本語が美しい。
「藤村詩集」序
遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古(いにしへ)の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
伝説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大な衰頽(すいたい)とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆実(ぼくじつ)なる青年なりき。その芸術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口唇にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢(わういつ)なる思潮は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂はしめたるを。
われも拙(つたな)き身を忘れて、この新しきうたびとの声に和しぬ。
詩歌は静かなるところにて想ひ起したる感動なりとかや。げに、わが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
なげきと、わづらひとは、わが歌に残りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされてわれも身と心とを救ひしなり。
誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。芸術はわが願ひなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。むしろわれは芸術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の紀念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
( 『島崎藤村集』 (集英社)より)
■
[PR]
by hannah5 | 2005-11-01 00:30 | 私の好きな詩・言葉 | Comments(4)