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私の好きな詩・言葉(89) 「サイレント・ブルー」 (光富 郁也)   


自分すら他人に思える夜。わたしは無精ひげに、アクセサリーの水晶をつける。本を拾い読みし、起き上がりベッドにすわる。マリン・ブルーの表紙に手を置く。こめかみが痛い。胸に水晶の玉がゆれてあたる。外を走るバイクの音。遠くから救急車のサイレンがし、近くの駐車場から話し声がする。

眼鏡を床から拾い上げ、暗い階段を降りていく。狭い廊下をふらつきながら、浴室の戸を開ける。服を脱ぎ捨て、近くの、ラジカセで、FMをかけると、女性DJの、声が聞こえる。明かりが点滅している。カセットテープで、波の音を聞く。浴室に入り、アクセサリーをつけたまま、浴槽に、身を沈めていると、窓の外で、雨の音がしはじめる。眼鏡をはずし、棚に置く。頭の後ろ、港と海の写真が、正面の鏡に映る。

水をすくう手で、顔を覆う。鼻の両脇から、あごへと、指がなぞる。口内炎が傷む。閉じた目を開けると、明かりが切れ、窓の街灯の、青い光に、水面がゆらめいている。体についた、古い小さな傷を上からなぞる。左の手の平の、奥にあるほくろのような、鉛筆をさされた痕。右手首、化膿して盛り上がった痕。左足かかと近くの、肉のえぐれた痕。左腹部の大きな茶色のあざ。ひたいの疱瘡のくぼみ。二の腕の、赤く長い傷は、まだ痛む。手に、緑の長い髪がからまる。

胸にさげた、丸い水晶を指でさぐる。水からとりだし、斜めからさしこむ、夜の光にあてる。金の鎖と、鋭い爪につかまれた球体。

テープが途中でとまり、雨音だけがする。アクセサリーを沈め、浴槽に頭をあずける。正面にある、小さな鏡に映る、前髪のたれた顔は、ぼやけて見えない。水面に目を落とす、と、ゆらぐ湯が、体に手をまわす。濡れた髪がまつげにかかり、水滴が目に流れ込む。左の唇を吸い込む。内側でふくらみ、盛り上がっている。眉をひそめ、ふるわす。

膝を曲げたまま、壁に体を倒し、閉じた目に、静かな、青が、わたしを眠りにさそい、水晶を、唇におしつける。むせび、体をゆすり、水が波うつ。

入浴剤の青が、ゆれる、銀色の浴槽。子どものように身をちぢめ、暗い上を見る。見えない空、夜の海で眠ろうとしている。わたしを支え、静かに手をとって、沖に運んでくれる。曲げた四肢を伸ばし、届かない足の先に、海流がある。つかまれた手は伸びきり、ひきずられていく。風が星のありかを教え、斜めの空にまばたく。潮から、はねる水が、口に入り、口内炎にしみる。乏しい視力に、ゆく先は知れない。腰のくびれに、だれかの手がまわる。わたしを支えるだれかを、認められない。首をねじまげると、風が水滴とともに、目に入る。つむる。風の音がする。波がわたしの首筋をうつ。見えない手が、左の足首をつかむ。肉のえぐれた痕に爪がかかる。わたしの髪は海面の下で舞う。気泡が包む。暗い空が、一転する。下半身にうろこがあたる。青白い肌の女が、わたしをすくめる。彼女の筋肉が陰影をもつ。

太陽が海面の上で、光をはなっている。海中から見上げる空は、静かな青。いく筋もの光がわたしをつかもうとする。女の腕の中、乳房に頭をあずけ、浴室に置き忘れた眼鏡を気にしながら、わたしは子どものように、身をまかす。彼女のひれがわたしの足にあたり、彼女の緑の、長い髪が、わたしの首筋にからまる。海の底、女に抱かれた、はだかのわたしに、魚が、群がる。静かな青。女は、わたしの二の腕に唇をあて、舌をはわせ、歯をたてる。のぞきこむ彼女の目から、わたしは視線をそらす。

ふいに、車の音がする。母が庭先に車を駐車しようとしている。近視の目を開けると、窓から風が吹いている。わたしがよりかかっていた銀の浴槽から、頭を起こす。そのまま、長い吐息を水面につく。後ろの海の写真で、水がはね、鏡にオビレが映り、消える。わたしの、ほやけた視界に、海がゆらめく。

わたし、しかいない浴室で、折った膝を抱える、アクセサリーの球面。


(詩集 『サイレント・ブルー』 より)




ひと言

前回に引き続き、また散文詩を読みたいと思う。今回は光富郁也さんの詩集 『サイレント・ブルー』 から「サイレント・ブルー」をご紹介する。78回目で光富さんの「天のカイト」をご紹介させていただいたが、実はその時、「サイレント・ブルー」が消えない印象となって残った。光富さんの詩の世界の中枢とまではいかなくても、少なくとも大事な部分のひとつではないかと思う。

静かなマリン・ブルーの幻想の中で人魚の女と作者との不思議な逢瀬が展開される。作者のいる場所は自宅の浴室。やがて浴室が海になり、人魚が現れる。人魚との交歓は癒えない傷跡をまさぐるようで、痛々しい。やがて母親の帰宅。同時に人魚は幻想の海へと消えていった。

この詩には音が聴こえない。終始、目の前で音のない映像が流れている。一人の孤独な青年が幻想の海底で出遭うのは、一人の美しい人魚なのだろう。



光富 郁也(みつとみ いくや)

1967年、山口県生まれ。現在、神奈川県在住。
横浜詩人会会員。
1998年国民文化祭現代詩大分入選。
2000年国民文化祭現代詩大会(ひろしま)入賞。
2001年、詩集 『サイレンと・ブルー』 (土曜美術社)出版。第33回横浜詩人会賞受賞。
アンソロジー 『詩と思想 詩人集2001』、『詩と思想 詩人集2002』、『詩と思想 詩人集2003』、『詩と思想 詩人集2004』、『詩と思想 詩人集2006』に参加・執筆。
雑誌「詩と思想」に執筆。
文芸個人雑誌「狼」編集発行。
光富さんのブログ 「詩という生活

by hannah5 | 2006-11-19 23:45 | 私の好きな詩・言葉

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