詩織
2019-07-18T14:52:47+09:00
hannah5
流れる時間の中で うつろいゆく 人の世を書き留め 心のままにひっそりと 詩を織り
Excite Blog
「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第4回-「夢の記述をめぐって」
http://hannah5.exblog.jp/29527605/
2019-07-18T14:51:00+09:00
2019-07-18T14:52:47+09:00
2019-07-18T14:51:22+09:00
hannah5
未分類
ダダ・シュルレアリスムの100年の最終講義は自動記述が夢の記述へ移行していった過程やその広がりなどを中心に行われました(5/26)。読んだ作品はアンドレ・ブルトンの『通底器』(部分)、ポール・エリュアールの「眠れないという夢をみる」(『夢の軌跡』)、瀧口修造の「三夢三話」(部分)(『寸秒夢』)、野村喜和夫さんの「85(臨終博物館)」(『風の配分』)でした。ちなみに野村さんは全作品の1/5は夢をもとにして書かれているそうです。
眠れないという夢をみる
ポール・エリュアール
夢のなかで、ぼくはベッドにはいっていて、深夜だ。どうしても寝つけない。からだじゅうが痛い。電気をつけようとするのだが、手がとどかず、ぼくはベッドを出て、暗がりのなかを手さぐりでNの部屋のほうへ行きかけて、廊下でころんでしまう。そのまま起きあがることができず、ぼくはじりじりと這ってすすむ。息がつまりそうだ。胸がひどく痛む。Nの部屋の入口で、ぼくは眠りこんでしまう(眠りこんでしまうという夢だ)。 突然、ぼくははっとして目をさます(目をさますという夢だ)。Nが咳をし、それがひどくこわかった。ぼくはそのとき、自分が身動きできなくなっていることに気づく。腹這いになっているのだが、胸と顔が地面にいやというほど圧しつけられている。めりこんでしまいそうだ。ぼくはNを呼んで、かの女に≪パ・ラ・リ・ゼ≫(麻痺している)という言葉を聞かせようと試みる。だめだ。ぼくはぞっとするような不安の思いで、自分がいま盲で、啞で、半身不随で、もう自分自身について何一つひとに知らせることができないのだということを考える。ぼくは生きているのに、ひとびとにとってぼくはいないも同然になるのだ。それから、ぼくは何か幕のようなものを想像する。両手で押しても破れない窓ガラスのようなもの。苦痛が次第に薄らいでくる。ぼくはふと、自分がはたして床板の上にいるのかどうかも指先でたしかめてみる気になる。ぼくは軽くシーツをつまむ。助かった。ぼくはベッドのなかにいるのだ。(一九三七年七月十八日の夢)
起きているときでも、ぼくはこのような隔離の感じ、このような不安、このような苦痛、このような断末魔の苦しみに襲われる。そして腹が立ってくるようなとき、ぼくはいつでも破れかぶれの気持ちで、がむしゃらにそういう状態を再現しようとつとめる。 ぼくは自分がすでに、はっきりと見捨てられ、忘れられたのだと思わずにいられないような、極度の肉体的な衰弱をしばしば経験しているため、最悪の瞬間には、ぼくはみずから進んで他人を自分から剥奪し、すべてのひとびとに逆らって生きる欲求を感じるのだ。(山崎栄治訳)
「三夢三話」より(部分)
瀧口修造
Ⅱ
私はパリに着いて、まだ宿舎も定まらぬ身の上らしく、サン・ミッシェル大通りのどこか引っ込んだ古びたアパルトマンの一室に誘われてきたのだが、天上の明り窓から察すると屋根裏の住まいで、ろくな調度もない殺風景な部屋である。片隅の鉄製ベッドに、眼のつりあがった、肌の妙に白い三十女が半裸で、こちらには無関心にあぐらをかいたように坐っている。それは仏陀の半跏像を真似ているように見える。私はといえば、フランスの詩人たちと一緒に床の上に車座になり、懸命に語っているのであるが、よくしゃべる相手の詩人はバンジャマン・ペレである(彼は疾っくに故人のはず)。もうひとり、これも共に今は亡い詩人のロベール・デスノスとルネ・クレヴェルの二人、それが妙に重なり合ったようにひとりの人物として映っている。まだひとりいるのだが、誰かは判らず半透明の塊のようにぼけている。ただすこし離れた扉に寄りかかるように佇んで、無言のまま、むしろ冷やかにこちらを眺めているのは、背のすらりとしたジャック・デュパンである(これは現存の詩人で、私はミロを介して会ったことがあり、いまも時おり交渉がある)。意外なことには、私はいつともなく芭蕉、つまり蕉翁に仕立て上げられているのである。翁に成りすましているというよりも、その場でついそんな立場に追い込まれたのだ。というのは、私はそこでいわゆる「さび」についてフランスの詩人たちにむきになって何事かを説こうとしているのだが、そこには蕉翁らしい影もない普段の自分がいるだけだからである。外国語をかなり自由にしゃべれるというのも夢中の特権であろうが、ただ特定の言葉だけは鮮やかに夢の記憶に残るということが、私にはこれまでに時おりある。その夢では言葉そのものが動機になっているからであろう。とはいえ、いまのこの夢で語っていることは到底つじつまが合っているとはいえない。 さび、それが俳諧の真髄のひとつであることを説こうとつとめているのだが蕉翁その人である私が、さびは錆に通じ、それは石や金属までも腐蝕し、しだいに消滅にみちびくが、しかし「さびし」にも通じる。それは孤独とも違ったもので、しかしどこか荒涼として、誰もいなくなり、ついには自分もいなくなる――だいたいそんな風なことをしゃべるのだが、自分はこと志と違ってことを言ったと悔んでいる。ペレは私を遮るようにして「それはフランス語のサビールsabirだ!」と、ここぞとばかりに叫ぶ。そして、これはもとはスペイン語で、フランス語のサヴォール(知る)と同じだが、この変てこな語はすべてを含んでいるから、元をたどればお前の「さび」と同じに違いない、と言うのである。そしてまた、このサビールがまたサーブル、すなわち砂に転ずる。この砂という言葉くらい、多くの意味をもつフランス語も珍しい。
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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第3回-「自動記述とは? 夢の記述とは?/西脇順三郎」
http://hannah5.exblog.jp/29525901/
2019-07-17T14:09:00+09:00
2019-07-17T14:09:43+09:00
2019-07-17T14:09:13+09:00
hannah5
詩のイベント
ダダ・シュルレアリスムの100年の3回目の講義は自動記述についてでした(4/28)。自動記述とは何か、自動記述におけるさまざまな分野での利用などを中心に講義が行われました。読んだ作品は西脇順三郎の「馥郁タル火夫」(『Ambaruvalia』)、アンドレ・ブルトンの『溶ける魚』(部分)と『シュルレアリスム宣言』(部分)、ブルトンとフィリップ・スーポーの「裏箔のない鏡」(部分)(『磁場』)、野村喜和夫さんの「ちたちたちた」(『幸福な物質』)と評論「自動記述と心象スケッチ」でした。
『シュルレアリスム宣言』
アンドレ・ブルトン
<シュルレアリスム>という言葉を、わたしたちがきわめて特殊な意味に解して使用する権利に、もしも異議をとなえる人間がいるとすれば、それはたいへんな言いがかりである。というのはわれわれは以前にこの言葉が行きわたったためしがないのは明らかだからである。そこでそれをはっきり定義づけておこう。
シュルレアリスム 男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを表現することを目標とする。理性による一切の統禦をとりのぞき、審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる、思考の口述筆記。 <百科辞典的説明>。哲学用語。シュルレアリスムは、これまで閑却されてきた、ある種の連想形式の高度な現実性への信頼と、夢の全能への信頼と、思考の打算抜きの働きにたいする信頼に基礎をおく。それ以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代わって人生の重要な問題の解決に努める。<絶対的シュルレアリスム>の実践者は以下の人たちである。アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、タルヴェル、デルテイユ、デスノス、ユリェアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴィトラック。
ちたちたちた
野村喜和夫
他の茎のなかでめざめたちたちたちた石よりも硬い漿液に貫かれて純粋な痛みが駆けのぼってくる口唇からこぼれ落ちる舌の錆私とは誰でありえたか南面の性の崩落が激しい北東には岬が立ちヘリウムと呼ばれるほろほろな空隙を踏みそこね踏み外しリズムすべてはリズム老いたところで何になろう時の風紋のいただきに立ち霧を集めては飲む虫の忍耐のよう無限の右の繊維が裂けて白磁のような外がのぞいた西へすすむにつれ私はちぢむ振り仰げばまだら母の深みるりるりるり全身にその刺青をほどこしてもらう
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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第2回-「ダダの衝撃/ダダイスト新吉、ダダイスト中也」
http://hannah5.exblog.jp/29525837/
2019-07-17T13:17:00+09:00
2019-07-17T13:23:40+09:00
2019-07-17T13:17:57+09:00
hannah5
詩のイベント
ダダ・シュルレアリスムの講義の2回目はダダの運動がどのように広がっていったか、その起源と展開、その後の影響力などを中心に進められました(3/23)。ダダ以前に未来派やキュビズムがあったこと、ダダはチューリヒで始まったこと、ダダの語源、なぜダダなのか、ダダがパリでどのように受け入れられたか、日本でのダダの影響などが講義されました。読んだ作品はトリスタン・ツァラの「近似的人間(抄)」(部分)と「ムッシュー・アンチピリンの宣言(抄)」(部分)、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』より49番、中原中也の「ダダ音楽の歌詞」、萩原恭次郎の『死刑宣告』(部分)、塚原史の『ダダイズム―世界をつなぐ芸術運動』より「帽子の中の言葉」(部分)でした。
近似的人間(抄)
トリスタン・ツァラ
1
重苦しい日曜日は沸騰する血液を覆う蓋となりその筋肉の上にうずくまる一週間の重さが再び見出されたそれ自体の内面に落下する鐘たちは理由なく鳴り そして私たちもまた鐘たちを理由なく鳴らせ そして私たちもまた私たちは鎖の音に歓喜するだろう鐘たちとともに私たちが自分の内面で鳴らす鎖の音に
*
私たちを鞭打つあの言語は何か 私たちは光の中で跳びはねる私たちの神経は時の両手に握られた何本もの鞭だそして疑いが片方だけの色のない翼で飛んできて私たちの内面で締めつけられ押さえつけられて砕ける破られて皺くちゃにされた包装紙のように別の時代へすり抜けた棘のある魚たちの贈り物のように
*
鐘たちは理由なく鳴り そして私たちもまた果物たちの眼が私たちをしげしげと見つめ私たちのすべての行動は見張られて隠しようもない川の流れは川底を何度も洗って引きずるような二つの視線を運び去る
流れは酒場の壁の足元で多くの人生を舐め弱者たちを誘い恍惚感が枯渇した誘惑に結びつき昔から伝わる山積みの異本の底に穴を開け囚われた涙の泉を解放する息の詰まる日常に隷属してきた泉たち(・・・)川の流れは川底を何度も洗ってなめらかな波の上を光さえもが滑っていき石が破裂する重々しい音とともに深淵に落下する
49
高橋新吉
皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿 倦怠 額に蚯蚓這ふ情熱 白米色のエプロンで 皿を拭くな 鼻の巣の黒い女 其處にも諧謔が燻ぶつてゐる 人生を水に溶かせ 冷めたシチューの鍋に 退屈が浮く 皿を割れ 皿を割れば 倦怠の響が出る。 .]]>
野川朗読会10
http://hannah5.exblog.jp/29523790/
2019-07-16T06:27:00+09:00
2019-07-16T06:27:00+09:00
2019-07-16T06:27:00+09:00
hannah5
詩のイベント
7月13日、10回目の野川朗読会が行われました(於成城ホール集会室)(後援は思潮社、モノクローム・プロジェクト、らんか社)。今回のひとことテーマは「怖い話」で、それぞれが怖い話にちなんだ作品を朗読しました。長野まゆみさんと田野倉康一さんとそらしといろさんの対談は古墳にまつわる話で、古墳のことはまったく門外漢の私ですが、中身の濃い話で面白かったです。
【一部】
〔朗読〕新井高子、生野毅、渡辺めぐみ、浜江順子、北爪満喜、そらしといろ、杉本真維子
〔対談〕長野まゆみ、田野倉康一、そらしといろ
【二部】
〔朗読〕長野まゆみ、田野倉康一、樋口良澄、相沢正一郎、野村喜和夫、一色真理、岡島弘子
(司会)一色真理
(敬称略)
長野まゆみさん
田野倉康一さん
樋口良澄さん
野村喜和夫さん
(写真の大きさが上手く調整できなくてすみません。)
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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第6期-「ダダ・シュルレアリスムの100年」第1回-「先駆者たち/山村暮鳥、萩原朔太郎」
http://hannah5.exblog.jp/29304311/
2019-03-11T23:37:00+09:00
2019-07-17T13:22:15+09:00
2019-03-11T23:37:38+09:00
hannah5
詩のイベント
野村喜和夫さんが講義される現代詩講座の第6期が始まりました(2/24)。今回はダダとシュルレアリスムについての講義です。講義が始まる前に野村さんからいただいたメールには「言うまでもなくシュルレアリスムは、近代以降最大の文学・芸術運動で、その後の世界文学・芸術に与えた影響もはかりしれません。今年は、最初の自動記述による作品とされるアンドレ・ブルトン+フィリップ・スーポー『磁場』が発表されてからちょうど100年目にあたります。そこで、第6期はテーマを「ダダ・シュルレアリスムの100年」として行います。主としてフランスの詩人たちを中心に(テクストは翻訳を用いますので、フランス語の知識は必要ありません)、平行して日本のシュルレアリスム系詩人にもふれていこうと思います。」とありました。
以前は超現実主義という日本語訳が使われていたようですが、現在はシュルレアリスムという原語で使われることが多いようです。第1回目の2月24日はジェラルード・ネルバル、ロートレアモン、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、山村暮鳥などについての解説を織り込みながら、シュルレアリスムがなぜフランス文学から始まったか、ダダが日本の詩人にどのような影響を与えたかなどを中心に講義が行われました。読んだ作品はネルヴァルの「オーレリア」(一部)、「シダリーズ」、「廃嫡者」、アポリネールの「地帯(抄)」、「ミラボー橋」、ロートレアモンの「第一の歌」、「第五の歌」、「第六の歌」、山村暮鳥の「囈語」、野村さんの「百年の暮鳥」でした。
地帯(抄)Zone
ギヨーム・アポリネール
ついに君はこの古くさい世界に倦きた
羊飼いの娘 おおエッフェル塔よ 橋々の群れは今朝 羊のように鳴きわめく
君はうんざりしている ギリシアやローマの古代の生活に
ここでは自動車さえもが古く見える宗教だけが未だに真新しい 宗教だけが
君は一人だ じきに朝が訪れるあちこちの通りで牛乳屋が缶を鳴らす夜は美しい混血娘のように遠のいていくそれは腹黒いフェルディーヌか 注意深いレアだ
そして君は飲む 君の命のように燃えるこのアルコールを命の水のように君が飲む君の命
君はオートゥイユのほうに向う 歩いて家に帰りオセアニアとギニアの物神に守られて眠りたいのだそれらの物神は 別の形をした別の信仰のキリストたち漠とした希望の 下位にくらいするキリストたちだ
ではさらば さようなら
太陽 首 切られて
囈語
山村暮鳥
竊盗金魚強盗喇叭恐喝胡弓賭博ねこ詐欺更紗瀆職天鵞絨姦淫林檎傷害雲雀殺人ちゆりつぷ堕胎陰影騒擾ゆき放火まるめろ誘拐かすてえら。
百年の暮鳥
野村喜和夫
いちめんの野の鼻いちめんの野の鼻
腸串ってあらしあらしキミハイタルトコロデ作動シテイル強姦サキソフォン監禁マダラカ
字と絵と)ぶらっ背)聾)ぶっ(出て(ぬぶっ(尾おっ(麩論(出っぱれ露)得て(洩ると
腸串ってにくしんに薔薇を植ゑキミハ呼吸シキミハ熱ヲ出シキミハ食ベ 字と絵と)れれべ)いやん(荒れ得ぬ(生ぶっ)餌(血みっど
キミハイタルトコロデ作動シテイル主体ヲ載セカツ轢キ殺シ
呪るべ)穴)ぼわっ)る)られ)地痰(れ(らぶ(れ得ぬ(うっ
腸串ってあかんぼのへその芽キミハ大便ヲシキミハ肉体関係ヲ結ンデイルキミハ
字も絵も(治安(ぶっ(まん(こまん(驟雨)老べろん)飛ん)べーる)おっ)婆)斜背
いちめんの野の鼻 いちめんの野の鼻いちめんの野の鼻 いちめんの野の鼻
目ヲ瞑レマダ正午ダ目ヲ瞑レマダ正午ダ目ヲ
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【講義予定】
第1回 2/24 先駆者たち/山村暮鳥、萩原朔太郎第2回 3/24 ダダの衝撃/ダダイスト新吉、ダダイスト中也第3回 4/28 自動記述とは? 夢の記述とは?/西脇順三郎第4回 5/26 イメージの詩学/瀧口修造
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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第5期-「愛の詩の12ケ月」第4回
http://hannah5.exblog.jp/29300624/
2019-03-09T23:49:00+09:00
2019-03-09T23:49:56+09:00
2019-03-09T23:49:56+09:00
hannah5
詩のイベント
「愛の詩の12ケ月」の4回目(最終回)は、最初の前半でパウル・ツェランの詩を中心に講義が行われ、後半は受講生達が選んだ愛の詩(一人数編ずつ)の中からそれぞれ1編ずつを野村さんが朗読されました(1/27)。愛の詩には受講生自身の詩を入れてもよく、またそれらの詩は多岐にわたっていて大変面白かったです。題名と作者を列挙してみると:
ジャック・プレベール:「夜のパリ」「朝の食卓」黒田三郎:「秋の日の午後三時」那珂太郎:「小品」長島なみ子:「ドクダミ」伊藤ひろみ:「歪ませないように」尾形亀之助:「風」小池昌代:「熱い岸」新藤涼子:「行き方知れず」寺山修二:「和子について」野村喜和夫:「パレード13」「くみね日誌」「あるいはリラックス」蜂飼耳:「丹沢」高村光太郎:「あなたはだんだんきれいになる」「裸形」吉原幸子:「オンディーヌ」「ジェイ二 坊や」茨木のり子:「怒る時と許す時」西脇順三郎:「ヴィーナス祭のぜんばん」シェイクスピア:「ソネット第18番 ぶどう色の酒」ポール・エリュアール:「最初により」ユー・ギャハ:「リルケを読む」「僕と同様リルケが好きなかすみへ」山内獏:「土地3」立原道造:「ゆうすげびと」大岡信:「丘のうなじ」岡島弘子:「こごえた初恋」岩田宏:「幼い恋」吉岡実:「単純」飯島耕一:「赤丘」「夕陽の中へ」清岡卓行:「アカシヤの大連」「夏の海の近くで」入沢康夫:「夜 われらの逢い引きの場所」「楽園の思い出」ユン・ドンジュ:「序詞」「空と風と星と詩」シンボルスカ:「感謝」サトー八ロー:「お母さん2より」村上あきお:「十姉妹」高橋睦夫:「あがない」岸田将幸:「人の朝」小笠原しげすけ:「涙」金子光晴:「春」川崎弘:「地下水」田中さち:「風はいつも」新川和江:「路上」草野心平:「何もかももう煙突だ」作者?:「立像のように」「愛の歌」「女坂」「恋のメモリ」「ドクダミ」受講生の詩:「死ぬまで一緒に」「月の背中で」「無音」(朗読順)
光冠
パウル・ツェラン
僕の手のひらから秋はむさぼる、秋の木の葉を――僕らは恋人同士。僕らは胡桃から時を剥きだし、それに教える、歩み去ることを――時は殻の中へ舞い戻る。
鏡の中は日曜日。夢の中でまどろむ眠り。口は真実を語る。
僕の目は愛するひとの性器に下る――僕らは見つめあう、僕らは暗いことを言いあう、
僕らは愛しあう、罌粟と記憶のように、僕らは眠る、貝の中の葡萄酒のように、月の血の光を浴びた海のように。
僕らは抱きあったまま窓の中に立っている、みんなは通りから僕らを見まもる――
知るべき時!石がやおら咲きほころぶ時、心がそぞろ高鳴る時。時となるべき時。
その時。
(パウル・ツェラン詩集『罌粟と記憶』より/飯吉光夫訳)
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私の好きな詩・言葉(174)
http://hannah5.exblog.jp/29287185/
2019-03-02T21:22:00+09:00
2019-03-02T21:26:45+09:00
2019-03-02T21:22:15+09:00
hannah5
私の好きな詩・言葉
こごえた初恋
先生を好きになっても装うことを知らず受け持ちの理科と数学を勉強したクラブ活動は先生が顧問の科学部に友達を誘って入部女子は二人だけだった先生の指導の下アミノ酸しょうゆやクリームをつくった実験をおえて帰る家路はあたたかい闇
夏でも朝は肌寒い天井にはこごえたハエがじっとしているジャムの空きビンに水を入れビンの口でおおうとポトポト残らず落ちてきた観察すると 水中のハエの体にびっしりと泡がついている皮膚呼吸しているのだろうか
「ハエの皮膚呼吸」と題した自由研究が選ばれ発表会に出品されることになった
発表会の会場の学校まで先生の自転車のうしろにのせてもらって出発する日「うらやましい」といいながらクラスの女子全員が見送りに来たあこがれの先生が目当てだったのだ
「ブドウが実っているね」 話しかけてくる先生に私は黙っていた真っ赤になって固まっていたのだ息もできず ハエのように皮膚呼吸していた「どうしたの」とふりかえる先生
おもいきって友達を誘って先生の家をたずねた美しい奥さまに迎えられ めずらしいお菓子をごちそうになった先生はるすだった
若葉が光に痛む 青く固いブドウのまま卒業式を迎えてしまった
(岡島弘子詩集『洋裁師の恋』より)
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読みながらとても共観した詩です。似たような経験を私も高校生の頃したなぁと思いながら読みました。誰でも若い頃一度は先生に憧れた経験をもっているのではないでしょうか。教習で来た若いハンサムな先生に憧れたり、担任の暖かくハンサムな先生が好きになって、でもそんなこと先生にはひと言も言えず、卒業する頃つつじの花を摘んでそっと先生に渡したこととか、「青く固いブドウ」の思い出はとても懐かしいです。
岡島弘子さん、洋裁をなさっていたのですね。朗読会などでお会いしてもご挨拶を交わす程度で、岡島さんのことはほとんど存じ上げなかったのですが、詩集を読みながら岡島さんについて新しい発見をしたようで新鮮でした。そして、詩集は若い頃の固いつぼみのような恋から、大人になって一色真理さんと出会う話などが、針や糸や洋服を縫っていく過程などに絡めて丁寧に書かれていて、女の子の気持ちを代弁するようなこんな詩集も良いものだと思いました。
尚、この詩は現代詩ゼミナールで岡島さんが朗読されました。
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現代詩ゼミナールと新年会
http://hannah5.exblog.jp/29269924/
2019-02-22T06:07:00+09:00
2019-02-22T06:07:46+09:00
2019-02-22T06:07:46+09:00
hannah5
詩のイベント
1月12日(土)に日本現代詩人会主催の現代詩ゼミナールと新年会が催されました(於東京・アルカディア市ヶ谷(私学会館))。
【ゼミナール】
開会のことば 新藤涼子講演 安藤元雄 「詩が立ちあがる場」詩朗読 岡島弘子、中本道代、野田順子、野村喜和夫、浜田優、森水陽一郎閉会のことば 麻生直子
【新年会】
開会のことば 秋亜綺羅祝辞・乾杯・来賓・遠隔地・新入会員、スタッフ紹介等閉会のことば 山本博道(敬称略)
安藤元雄さんのお話、聞き入ってしまいました。新年会は私自身の予定が詰まっていたので失礼しました。 .]]>
「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第5期-「愛の詩の12ケ月」第3回
http://hannah5.exblog.jp/29266366/
2019-02-20T06:16:00+09:00
2019-02-20T06:16:59+09:00
2019-02-20T06:16:29+09:00
hannah5
詩のイベント
「愛の詩の12ケ月」の3回目は入沢康夫とアメリカの入沢康夫と言われたジョン・アシュベリーの詩を中心に講義が行われました(12/23/2018)。読んだ作品は入沢康夫の「失題詩篇」、「夜」、「ワレラノアイビキノ場所」、「未確認飛行物体」、ジョン・アシュベリーの「北の農場で」、他に野村さんが新聞などに寄稿された入沢康夫の追悼文2つを読みました。
失題詩篇
入沢康夫
心中しようと 二人で来れば ジャンジャカ ワイワイ山はにっこり相好くずし硫黄のけむりをまた吹き上げる ジャンジャカ ワイワイ
鳥も啼かない 焼石山を 心中しようと辿っていけば 弱い日ざしが 雲からおちる ジャンジャカ ワイワイ雲からおちる
心中しようと 二人で来れば山はにっこり相好くずし ジャンジャカ ワイワイ硫黄のけむりをまた吹き上げる
鳥も啼かない 焼石山を ジャンジャカ ワイワイ心中しようと二人で来れば弱い日ざしが背すじに重く心中しないじゃ 山が許さぬ山が許さぬ ジャンジャカ ワイワイ
ジャンジャカ ジャンジャカジャンジャカ ワイワイ
北の農場で
ジョン・アシュベリー
どこかで誰かが君をめざして、たけり狂って進んでくる、信じられないほどの速度で、昼も夜もなく進んでくる、吹雪も炎熱の砂漠もものかは、早瀬を渡り、隘路を通って。けれども、彼に君の居場所がわかるだろうか、会っても君だとわかるだろうか、持ってきたものを渡せるだろうか。
ここはまるで不毛の地、けれども穀倉は荒粉ではち切れそうで、荒粉の袋は積まれて垂木にまで届く。川は清らに流れ、魚は丸々と太り、空は鳥に覆われている。いったいこれだけでいいのだろうか、ミルク皿を夜のうちに外に出しておくだけで、彼のことを時どき考えてみるだけで、時どき、いや、いつもいつも、複雑にまじりあった気持ちで? .]]>
あけましておめでとうございます
http://hannah5.exblog.jp/29064501/
2019-01-03T20:36:00+09:00
2019-01-03T20:37:19+09:00
2019-01-03T20:36:43+09:00
hannah5
ご挨拶
クリスマスの御挨拶もせず、新年のご挨拶も3日になってする今年です。暮れからずっと翻訳の仕事が立て込んでいて、新年も昨日から仕事をしています。毎年少しですがおせちを作るのですが、今年はそれも割愛、外のおせちを買いました。でも京都風のおせちで、おいしかったです。
皆様にはあたたかい良い年を迎えられますよう。
今年もよろしくお願いいたします。
はんな . ]]>
「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第5期-「愛の詩の12ケ月」第2回
http://hannah5.exblog.jp/28984630/
2018-12-18T20:17:00+09:00
2018-12-18T20:49:24+09:00
2018-12-18T20:17:19+09:00
hannah5
詩のイベント
「愛の詩の12ケ月」の2回目の講義は金子光晴、北東、大岡信、吉原幸子、川田絢音の作品についてでした(11/25)。それぞれ1篇ずつの作品紹介でしたが、作品を通して詩人の簡単な歴史や在り様などが紹介され、受講生からも深みのあるコメントが寄せられ、なかなかよかったです。読んだ作品は「愛情69」(金子光晴)、「きみが言う」(北東)、「丘のうなじ」(大岡信)、「オンディーヌⅠ」(吉原幸子)、「グエル公園」(川田絢音)でした。
丘のうなじ
大岡信
丘のうなじがまるで光つたやうではないか灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに
こひびとよ きみの眼はかたつてゐたあめつちのはじめ 非有だけがあつた日のふかいへこみを
ひとつの塔が曠野に立つて在りし日を回想してゐる開拓地をすぎ ぼくらは未来へころげた
凍りついてしまつた微笑を解き放つにはまだいつさいがまるで敵のやうだつたけれど
こひびとよ そのときもきみの眼はかたつてゐたあめつちのはじめ 非有だけがあつた日のふかいへこみを
こゑふるはせてきみはうたつた唇を発つと こゑは素直に風と鳥に化合した
火花の雨と質屋の旗のはためきのしたでぼくらはつくつた いくつかの道具と夜を
あたへることと あたへぬことのたはむれをとどろくことと おどろくことのたはむれを
すべての絹がくたびれはてた衣服となる午後ぼくらはつくつた いくつかの諺と笑ひを
編むことと 編まれることのたはむれをうちあけることと匿すことのたはむれを
仙人が碁盤の音をひびかせてゐる谺のうへへぼくは飛ばした 体液の歓喜の羽根を
こひびとよ そのときもきみの眼はかたつてゐたあめつちのはじめ 非有だけがあつた日のふかいへこみを
花粉にまみれて 自我の馬は変りつづける街角でふりかへるたび きみの顔は見知らぬ森となつて茂つた
裸のからだの房なす思ひを翳らせるため天に繁つた露を溜めてはきみの毛にしみこませたが
きみはおのれが発した言葉の意味とは無縁なべつの天体 べつの液になつて光つた
こひびとよ ぼくらはつくつた 夜の地平でうつことと なみうつことのたはむれを
かむことと はにかむことのたはむれを そして砂に書いた壊れやすい文字を護るぼくら自身を
男は女をしばし掩ふ天体として塔となり女は男をしばし掩ふ天体として塔となる
ひとつの塔が曠野に立つて在りし日を回想してゐる開拓地をすぎ ぼくらは未来へころげた
ゆゑしらぬ悲しみによつていろどられ海の打撃の歓びによつて伴奏されるひとときの休息
丘のうなじがまるで光つたやうではないか灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに
オンディーヌ Ⅰ
吉原幸子
水わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた
純粋とはこの世でひとつの病気です愛を併発してそれは重くなるだからあなたはもうひとりのあなたを病気のオンディーヌをさがせばよかった
ハンスたちはあなたを抱きながらいつもよそ見をするゆるさないのが あなたの純粋もっとやさしくなってゆるさうとさへしたのがあなたの堕落あなたの愛
愛は堕落なのかしら いつも水のなかの水のやうに充ちたりて透明なしづかないのちであったものが冒され 乱され 濁されるそれが にんげんのドラマのはじまり破局にむかっての出発でしたにんげんたちはあなたより重い靴をはいてゐる靴があなたに重すぎたのは だれのせゐでもない
さびしいなんてはじめから あたりまへだったふたつの孤独の接点がスパークしてとびのくやうにふたつの孤独を完成する決して他の方法ではなされないほど完全にうつくしく .]]>
ポエジー・クリティック1「身体/言語的身体」と「言語/身体的言語」
http://hannah5.exblog.jp/28974317/
2018-12-15T06:07:00+09:00
2018-12-15T06:07:05+09:00
2018-12-15T06:07:05+09:00
hannah5
詩のイベント
11月3日(土)喜和堂のもうひとつの朗読会「ポエジー・クリティック」がブックカフェ エル・スールで行われました。これは3月24日に自作の詩を読む喜和堂朗読会とは趣旨が異なり、紙に書かれた詩を朗読する時における読み手と聴き手という両面からとらえ、双方向から言語を構築し、かつ批評を加えていく試みです。ダンサーでコレオグラファー、雑誌『ダンスワーク』の編集長長谷川六さんをゲストにお迎えし、野村喜和夫さんと岩切正一郎さんと3人のトーク、喜和堂の有志による朗読が行われました。
【プログラム】
〔第一部〕トーク「身体/言語的身体」と「言語/身体的言語」 長谷川六、野村喜和夫、岩切正一郎 (司会)山腰亮介
(右から)野村喜和夫さん、長谷川六さん、岩切正一郎さん、山腰亮介さん
〔第二部〕リーデイングとトーク「朗読をめぐるプランと実践」 野村喜和夫、岩切正一郎、芦田みのり、川津望、森川雅美、渡辺めぐみ (司会)山腰亮介
岩切正一郎さん
野村喜和夫さん .]]>
「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第5期-「愛の詩の12ケ月」第1回
http://hannah5.exblog.jp/28843406/
2018-11-11T20:40:00+09:00
2018-11-11T20:40:24+09:00
2018-11-11T20:40:24+09:00
hannah5
詩のイベント
野村喜和夫さんの現代詩講座の第5期が始まりました(10/21開始)。今回は世界中の詩人の愛を詠った詩を中心に講義が進められます。ゲーテやボードレール、有名なもの、古典的なものを避け、20世紀以降の詩人に限定されています。また、期末には「私の愛の詩のコンピレーション、アルバム」として、受講生は自分の愛誦する愛の詩、自作の愛の詩などから朗読コンピレーションアルバムの課題を提出しなければなりません。これはちょっと楽しみです。
【愛の詩の12ケ月・講座予定】
第1回1月 エミリー・ディキンソン、ポール・エリュアール2月 清岡卓行、ポリス・パステルナーク3月 黒田三郎、金子光晴
第2回4月 北島、大岡信5月 川田絢音、朝吹亮二6月 安東次男、吉岡実
第3回7月 ジュゼッペ・ウンガレッティ、川口晴美8月 岡田隆彦、アンドレ・ブルトン9月 ジョン・アッシュベリー、シャルル・ボードレール
第4回10月 白石かずこ、T. S. エリオット11月 イヴ・ボンヌフォワ、パウル・ツェラン12月 オクタビオ・パス、草野心平
*****
盛り沢山の内容だったため、3月の黒田三郎と金子光晴は講義をする時間がなくなり、結局2月のポリス・パステルナークまででした。
(大地は一個のオレンジのように青い)
ポール・エリュアール
大地はオレンジのように青い間違いなものか 言葉に嘘はない言葉はもう歌わせてはくれないこんどは接吻が睦みあう番だ狂人たちと愛彼女 その盟約の口すべての秘密すべての微笑それもなんという寛容のころもだろう彼女を全裸と思わせるほど。雀蜂が緑に花ひらく
夜明けはうなじのまわりに窓の首飾をかける翼が葉を蔽うきみにはあらゆる太陽の悦びが地上のすべての太陽があるきみの美しさの道筋に。
(田中淳一訳)
あのひとはわたしに触れた・・・・・
エミリー・ディキンスン
あのひとはわたしに触れた、それでわたしは生きて知るあのように許された日を、あのひとの胸に探ったことを――それはわたしにとって無限の場所そしてしいんと静まりかえっていた、恐ろしい海が多くの小さな流れを休めるように。
そしていま、わたしは前とすっかり違っている、まるで高貴な空気を吸ったように――あるいは王冠に一寸さわったように――あのように彷徨うていたわたしの足も――わたしのジプシーのような顔も――いまは変貌している――もっと優しい光栄に。
この港に、もしわたしが入れるならば、エルサレムに来たリベカだって、これほど恍惚とした顔にならないだろう――社に驚きぬかずくペリシャ人だって荘厳な太陽神に向ってこのように烈しく打たれた面を上げることはないだろう。
(安藤一郎訳)
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私の好きな詩・言葉(173)
http://hannah5.exblog.jp/28632782/
2018-09-04T21:25:00+09:00
2018-09-04T21:28:53+09:00
2018-09-04T21:25:59+09:00
hannah5
私の好きな詩・言葉
春の大曲線
きみの命の大きさは0.1ミリから始まった。見ようとしなければ見えない大きさ。だけど暗闇にいたらはっきりとわかる光の筋。真っ直ぐに揺れて、真っ直ぐにたどり着いたこの地球の夜空から弾かれた。性別も顔もこれからの人生も知らされずに、理由もなく、抱き止められるために、まだ発見されていない塵や電子の波に紛れて。まだ見ぬパパとママだって何億光年も宇宙を旅した。あなたが最初に出会った微笑みの呼び方重さのしるし、眩しさに理由は隠されていないから些細なきっかけの糸を手繰り寄せたことだってすでにあなたは忘れているし目の前のあたたかな光を迎え入れることで頭がいっぱいなんだものはじめましてぼくたちはじめましてわたしたちまだ発見されていない宇宙の塵と大気と電子の波を見つめて微笑む両手で抱えあげて重さを知る頬をくっつけて温度を体感する名前をつけるあなたがこの絵から姿を消したあとでも手掛かりが残るように痕跡の何もないところからまた光が差すように季節を忍ばせて春には春の方角へ弓を張り伸びやかな布が一本の糸でするりと解けていくように奇跡、と喜ぶことができる幸せが続きますように思い切り空気を吸ってふかふかの夜の中でおやすみなさい弾く光の波があなたの夜明け前の鼓動に追いつく
そんなにたくさんの塩
夏の海辺で、母は岩肌に寄り添う。小さく跳ねるしぶきを浴びながら貝を取る。波が引くごとに、貝はきゅうと身を引き締めて張り付き、かたくなな殻だけが母の手元に残る。しつこい夏の暑さと戦いながら、それでも何個かの貝を手にして家に帰り、熱い汁のなかにぽとんと落とした。母は出汁をもったいなさろうに幾度もすすり、貝の実を残さず食べた。 次の日から、母の作る食卓の味が変わった。何かがどこかで塩がらくなっている。昆布の佃煮、魚の塩焼き、サラダ・豆腐のお味噌汁。背後でこっそり手順を覗き見ても変わったところは見当たらない。レタス・きゅうり・トマトなど、ざっくりと混ぜた野菜がボールのなかで波を待つ。皺の多く寄った母の手が器用に箸を持ち、小皿に取り分ける間に旅は始まる。味が変化するのだ。人生の終わりに、母が出会ったもの。私たちの食卓に潮が満ちてくる。
ひと言
中村梨々さんの第二詩集。詩集全体に「青」のイメージが流れていて、したがってタイトルの『青挿し』。
どの作品もりりさんらしい細やかさと抒情が溢れていて、やっぱりりりさんだ、やっぱりいいなと思う。いろいろいいなと思う作品はあったが、この2篇は私の中で強い印象を残した。老いと新生という対照的な生の営みがあたたかく優しい眼差しで描かれている。「春の大曲線」は新しいいのちの誕生がきらきらしていて、作者の喜びが溢れているし、「そんなにたくさんの塩」は老いていく母親の行動に戸惑いながらも、それを否定的ではなく、娘として一緒に人生を旅して行くという前向きのあたたかさが作品を覆っている。
中村梨々詩集『青挿し』発行 オオカミ編集室定価 1500円
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「日本の詩を読む/世界の詩を読む」第4期-「日本におけるランボー」第3回、第4回
http://hannah5.exblog.jp/28616451/
2018-08-29T21:25:00+09:00
2018-08-29T23:05:36+09:00
2018-08-29T21:25:04+09:00
hannah5
詩のイベント
野村喜和夫さんが講義される「日本におけるランボー」の第3回は「モダニズムと戦後のランボー受容」(7/22)、そして第4回は「私のランボー体験」でした(8/26)。3回目の講義では、戦後日本でランボーがどのように受容されていったか、ランボーの作品を翻訳した中原中也や小林秀雄に焦点を当て、その他ランボーを翻訳した人たちの訳の違いなどを比較しました。読んだ作品は西脇順三郎の評論「日光菩薩ランボー」、瀧口修造の「詩と実在」(部分)、粟津則雄訳のランボーの「コントCONTE」、清岡卓行の「最後のフーガ」、渋沢孝輔の「越冬賦」、鈴村和成訳のランボーの「酔いどれボート」(部分)でした。
4回目の「私のランボー体験」では野村さんがどのようにランボーと関わってこられたかを中心に講義が進められました。「あらゆるテクストは先行するテクストの書き換えである」というジュリア・クリステヴァの言葉を引用し、野村さんの詩に反映されたランボーの詩を読みながら、最終講義は野村ワールドが炸裂した感じでした。(副題は「ランボーとのわがテクスト間交流―本歌取り? 換骨奪胎? 脱構築?」。)読んだ作品は「シャルルヴィル発歯痛」、「アダージェット、暗澹と」、「そこ、緑に蔽われた窪地」、「スペクタクルあるいは波」、「この世の果てあるいは希望」でした。
スペクタクルあるいは波
野村喜和夫
不眠の夜の海は、アメリーの乳房のよう。 ――アルチュール・ランボー
海にゐるのは、 あれは人魚ではないのです。 海にゐるのは、 あれは、波ばかり。 ――中原中也
わたくしの果ての世の月明かりの液晶の海にちらちらみえているのはあれは人魚でも波でもなく眠れない女たち
人のうちどこまでもやわらかく重たげな肉をうねらせ分泌にみち眠れないとりわけ眠れない女たち
おおたえまなく寝返りをうつ女たち眠れない眠れないするとたとえようもなくうなじの明るみ針を刺すとぞろぞろと白い虫たちがあふれ出すようなその照り映えその照り映えその照り映え
捕獲の網を手に誰だわたくしは夏の日の少年でもあるまいしただこんなにも睾丸が睾丸だけが卵黄のように垂れた月をまねて重い
そのあいだにも眠れない女たちのすさまじいパーティだパーティ
ひとりがパンプスをはいたままベッドを飛び越え蹴り上げる昼の鬱屈の隣でべつのひとりがベッドをたててくるくるとまわしはじめるワルツもうどうしようもなくワルツその照り映えその照り映え
わたくしの果ての世の月明かりの液晶の海にちらちらみえているのはあれは人魚でも波でもなく眠れない女たち
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